赤い鯨と白い蛇

2006/08/25 松竹試写室
台詞の掛け合い主体の脚本と演出がかみ合っていない。
全体に薄っぺらな映画になっている。by K. Hattori

 75歳の雨見保江は千葉県の千倉(南房総市)に住む息子の家に世話になるため、孫娘の明美と一緒に東京から館山までやってくる。目的地の千倉はもう目と鼻の先だが、戦争中館山に疎開していたことのある保江は、その頃を懐かしんで途中下車したのだ。昔住んでいた家は、今もそのまま残っていた。現在の家主である河原光子は、突然やって来た見ず知らずのふたりを歓迎する。この家は来月取り壊す予定になっており、今は家財道具も引き払って空家状態。保江と明美は光子の厚意に甘えて、この家で一晩を過ごすことにするが、そこにもうひとり、以前ここに住んでいたという女がやってくる……。

 東京から千倉に向かう主人公たちが、旅の途中でさまざまな人と事件に出会うという筋立てはロードムービーのようだが、この映画の舞台は館山の古民家に限定されていて移動がないため、旅映画(ロードムービー)としての面白味はない。むしろこの映画は、古民家という場所に限定された「舞台劇」のような味を狙っているようだ。登場人物は極端に整理されていて、女性4人のいる空間(古民家とその周辺、せいぜい駅前まで)に外部から入り込んでくる人はい皆無。物語に重要な役目を果たすはずの光子の夫や、明美の恋人、千倉に住んでいる保江の息子などは、電話をするシーンはあっても、相手先の声としてすら登場することがないのだ。

 この映画は現実の世界の中から、男性を完全に排除している。しかしそんな中に、回想シーンでひとりの青年将校が現れるのは注目に値する。「思い出」の中の青年将校はカメラの前にその身体性をあらわにするだけでなく、カメラはこの青年将校の一人称の視点となって草原を疾走してみせさえするのだ。これは映画に登場する女性たち全員の気持ちが、保江の回想と一体化して、その向こう側にいる60年前の青年と一体化したことを意味する。彼女たちの気持ちは、今この時点で起きている外部の現実ではなく、今から60年以上も前の少女(当時)の記憶とつながって、時空を超えた新しい出会いを生み出すのだ。

 映画は容易に時間と空間を飛び越えることができる映像メディアだ。その点では、人間の「記憶」や「思考」と映画は相性がいい。同じことを実演の舞台でやろうとしても、時間の変化は表現できても、話の視点が今現在から60年前の少女へと移り、そこからさらに青年将校の視点に移り変わっていく様子までは表現できない。これこそ、まさに映画だ! しかし『赤い鯨と白い蛇』という映画は、そんな「映画らしさ」にあまりに無自覚だ。

 この物語は映画にするより、舞台劇にした方が面白かっただろう。女たちの人生のドラマは、物理的に限定された空間の中でより凝縮して濃厚なものになったはずだ。テレビドラマ出身のせんぼんよしこ監督は、映画よりお芝居向きの才能なのかもしれない。

11月25日公開予定 岩波ホール
配給:東北新社クリエイツ、ティー・オー・ピー 宣伝:ムヴィオラ
2005年|1時間42分|日本|カラー|ヴィスタサイズ|DTS-SR
関連ホームページ:http://www.asproject.jp/
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