ジョルジュ・バタイユ ママン

2006/05/24 メディアボックス試写室
美しく淫らな母と息子の近親相姦的な愛憎劇。
イザベル・ユペールの説得力。by K. Hattori

 ジョルジュ・バタイユの小説「わが母」を、イザベル・ユペールとルイ・ガレル主演で映画化したスキャンダラスな母と子のドラマ。原作は未読なので、この映画がどの程度バタイユの小説に沿ったものなのかはわからないが、あれこれと考えさせられることの多い映画だった。

 この映画で描かれているのは、聖なるものと俗なるものの一致、愛と暴力の一致、性と死の一致など、正反対の事柄が結びつき一体化していくこと。物語の全体を通して大きなテーマになっているのはセックスの問題だが、それは快楽よりもむしろ苦痛や悲しみや憎しみといった、人間のネガティブな感情や感覚と強く結びつけられている。性は甘美で尊いものであると同時に、汚くて罪深いものでもある。性に対するアンビバレンスな感情は、人間なら誰しも経験したことがあるものだろう。しかしこの映画ではそんな性に対する感情を軸にして、他の感情までもが両極端な価値観の間で大きく揺れ動く。

 タイトルにもなっている母親は、主人公の少年にとってかけがえのない聖なる女性であると同時に、倒錯したセックスをわが子に手ほどきする淫蕩な女性だ。一種のモンスターと言ったもいい。だが映画を最後まで観て気づいたのだが、この母親の中にはキリスト教文化圏の人間なら誰もが知っている、ふたりの聖女像が同居しているのだ。そのひとりは聖母マリア。少年の父親が死に、母と息子だけの生活になるという展開も、母子家庭だったマリアとイエスの家庭を踏まえているように見える。少年にとって、この母は神聖な存在なのだ。同時に母親も息子を、どこか神聖視している気配がある。

 もうひとりの聖女はマグダラのマリア。大ヒット中の映画『ダ・ヴィンチ・コード』で、イエスの妻だったと言われている女性だ。伝統的にこの女性は元娼婦、あるいは莫大な遺産を相続して身を持ち崩した罪深い女とされている。聖母マリアとマグダラのマリアは、キリスト教文化が生み出した女性の2種類のモデルなのだ。それは1枚の写真のネガとポジ、1枚のコインの裏と表のように、相互に補完しながら全女性を代表する存在となっている。

 近親相姦以上にグロテスクな母と息子の関係は、結局最後まで「母子」が「男と女」になることなく終わる。それはこの母親が、神聖な存在だったからに他ならない。ふたりはイエスとマリアがそうだったように、「痛み」を通して精神的に深く結びつき一体となる。ふたりが最後に抱き合う場面は、聖母マリアが死んだイエスを膝に抱く「ピエタ」のスキャンダラスなパロディなのだ。

 この映画のラストシーンで、母親の遺体がガラスケースのような物に覆われている場面が出てくる。これはヨーロッパの教会で、聖女の遺体がガラスケースに入れて展示してある様子を連想させる。淫乱で残酷な母は、やはり「聖女」だったという証明だ。なんという挑発的な映画か! そしてなんと面白い映画か!

(原題:Ma mere)

7月1日公開予定 テアトルタイムズスクエア
7月15日公開予定 銀座テアトルシネマ
配給・宣伝:アット エンタテインメント 宣伝:アンカー・プロモーション
2004年|1時間50分|フランス|カラー|1:1.85ビスタ|DOLBY SRD
関連ホームページ:http://www.at-e.co.jp/maman/
ホームページ
ホームページへ