ぼくを葬(おく)る

2006/02/24 GAGA試写室
余命数ヶ月と宣告された若いカメラマンの苦悶。
フランソワ・オゾン監督作。by K. Hattori

 『8人の女たち』や『スイミング・プール』のフランソワ・オゾン監督最新作は、2001年の『まぼろし』に続く「死についての三部作」の第2作目。1作目の『まぼろし』が「愛する者の死」につていの映画だとすれば、この2作目は「自分自身の死」に向き合う物語。いつ作られるか未定の3作目では、「子供の死」が扱われる予定だという。ラ・ロシュフコーは「太陽も死もじっと見続けることはできない」と言っているが、その言葉の通り、死という問題は誰もができれば目を背けたい究極のネガティブ・モチーフだ。それをあえて取り上げ、しかも系統の違う3つの映画に仕上げようというオゾン監督の精神的なタフネスぶりには恐れ入るばかり。『まぼろし』がそうだったように、この映画も観る人の心を打つ、美しさと力強さを兼ね備えた映画になっている。

 ファッションカメラマンのロマンは撮影中に突然昏倒し、医者で末期ガンと診断される。残された命の時間はせいぜい数ヶ月。しかし彼は、それを周囲の誰にも告げられない。年下の恋人を傷つけるような形で別れを告げ、家族にもつらく当たり、職場でもイライラしながらわがままに振る舞う。彼が初めて自分の境遇を明かしたのは、離れて暮らす祖母に対してだった。涙を流し、固く抱き合う祖母と孫。しかしやはり、ロマンは家族に対しては素直になれない。やがて彼はドライブインで知り合った女性から、思いがけない話を聞かされるのだが……。

 主人公ロマンを演じるのはメルヴィル・プポー。祖母ローラを演じるのは、往年の大女優であり大ベテランのジャンヌ・モロー。登場シーンは少ないのだが、圧倒的な存在感で貫祿を見せている。主人公がドライブインで知り合う女性ジャニィ役で、オゾン監督の前作『ふたりの5つの分かれ道』のヴァレリア・ブルーニ=テデスキが顔を出す。オゾン監督の映画は性的なシーンがしばしば描かれるのだが、この映画でもそれは同じ。しかし映画の中ではそうした行為が、「死」という現実からの逃避、あるいは「死」とは対照的な「生」への執着として描かれているようにも思う。

 印象に残る性的な場面は3ヶ所。ひとつは医者から死の宣告をされた主人公が、恋人に別れを切り出す前に乱暴に関係を持つ場面。次は恋人と別れた主人公が、同性愛者の集まる店で他の客たちの行為を前に立ち尽くす場面。これらの場面では、そこに描かれている行為のすぐ隣に「死」が見えている。最初の場面では「死」が隠蔽され、次の場面では「死」が暴力的な行為の姿を取って主人公に迫ってくる感じだ。彼を店の地下に誘う青年は、まるで死に神のようにも見える。

 映画の中で最後に描かれるのは、ちょっと風変わりな3Pだ。しかしこの行為の中から、主人公は最後に放り出されてしまう。しかし僕にはこれが、主人公の「解脱」のようにも見える。彼はこの段階で生への執着から脱し、自らの死を受け入れるようになるのだ。

(原題:Le Temps qui reste)

4月GW公開予定 シャンテシネ
配給:ギャガ・コミュニケーションズGシネマグループ
宣伝:ギャガ宣伝【春】、オフィス・エイト
2005年|1時間21分|フランス|カラー|ビスタ|SR、DIGITAL
関連ホームページ:http://www.bokuoku.jp/
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