同じ月を見ている

2005/10/07 東映第1試写室
窪塚洋介の復帰作だが全体に平板で感情が空回り。
脚本も演出も芝居もいまひとつ。by K. Hattori

 土田世紀の同名コミックを、『バトル・ロワイアルII【鎮魂歌】』の深作健太監督が映画化。脚本は『Laundry(ランドリー)』の森淳一。出演はこれが復帰作となる窪塚洋介、黒木メイサ、そして香港の若手スター俳優エディソン・チャン。深作監督にとっても主演の窪塚洋介にとっても、これは自分の実力を見せ、今後の映画界での生き残りを賭ける正念場の作品だったはずだ。しかし残念ながら、この映画ではその思いだけが空回りしている。

 窪塚洋介演じる熊川鉄矢と、黒木メイサ演じる杉山エミは付き合っているのだが、鉄矢はこの関係が壊れてしまうのを恐れている。それはエミの父親の死という悲劇を招いた山火事を、自分の過失で引き起こしたという過去があるからだ。その山火事の犯人として逮捕され、一言の弁解もしないまま刑務所に入っているのが、エディソン・チャン演じる水代元(通称ドン)。山火事を引き起こしたのが鉄矢だということは、鉄矢とドンしか知らない。そのドンが刑務所を脱走したことで、鉄矢の恐れはさらに強まる。

 これは心に傷を持った人々を、「聖愚者」であるドンが癒していく物語だ。しかしドンは映画の中心にはいない。中心にいるのは鉄矢だ。「聖愚者」という厄介な存在に手を焼き、そこから離れたいと願いながらも逆に引きつけられていく「普通の人間」の愛憎の葛藤。それがこの映画の中心にあるモチーフだ。鉄矢はドンを守りたい。しかし同時に、彼を殺したいほど憎んでもいる。真っ直ぐに人の心を見通すドンの心の不思議に心惹かれると同時に、そのドンのピュアな心が恋人エミをも引きつけていることに嫉妬する。しかもその鉄矢はひどく屈折しているのだ。エミの父を殺したのは本当は自分なのに、ドンがその罪を被って服役したという事実も彼を苦しめ、不安にさせる。

 しかしこの映画の中では、そんな鉄矢の屈折と葛藤がうまく表現できていない。人はおいそれとは「聖愚者」になれず、むしろ「普通の人」である鉄矢こそが、映画を観る観客の共感を得なければならない存在なのに、この映画を観て鉄矢に感情移入できる人がどれだけいるのだろう。鉄矢の抱えている弱さや優しさを、ドンやエミは愛しているはずではないか。しかし映画を観ていても、それが伝わってこない。これは窪塚洋介の演技力の問題でもあるだろうし、監督の演出の問題でもあるだろう。例えば鉄矢が再会したドンを、さんざん殴りつける場面がある。ここでは鉄矢の中にある様々な感情が噴き出してくるわけだが、それが映像として表現されていなかったのではないだろうか。

 「聖愚者」に出会ってしまった人間の複雑な心の動きという点では、むしろ山本太郎演じるチンピラヤクザに好感が持てる。弱さを持つがゆえに強がってみせる人間の姿と、それを見抜いてしまうドンの姿を描く印象的なサイドエピソードだ。

11月19日公開予定 全国東映系
配給:東映
2005年|1時間46分|日本|カラー
関連ホームページ:http://www.onatsuki.jp/
DVD SpecialShop DiscStation 7dream_88_31 TSUTAYA online
ホームページ
ホームページへ