東京ゾンビ

2005/06/09 東芝エンタテインメント試写室
哀川翔のハゲヅラが衝撃的(笑劇的?)な和製ゾンビ映画。
カルト化必至の快作(怪作?)だ! by K. Hattori

 東京のゴミの山からゾンビたちが蘇った近未来、死の町となった東京に生き残った金持ちたちは、人間とゾンビが戦う「ゾンビ・ファイト」という見せ物に熱狂していた……。花くまゆうさくの同名コミックを、浅野忠信と哀川翔主演で映画化したもの。浅野忠信のアフロヘアもすごいが、哀川翔のハゲ頭はその何倍ものインパクトがある。監督はこれがデビュー作という佐藤佐吉。

 リメイク版も作られるなどゾンビ映画の古典となっているジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』には、古典映画のすべてがそうであるように多くの追随作品が現れている。『東京ゾンビ』もそうした作品のひとつで、のろのろと動くゾンビたちの出現、ゾンビに噛まれるとその人間もゾンビになるという感染性、生き残った人間たちの逃走、無人になった商店での食料調達、仲間のひとりがゾンビに噛まれて涙ながらに脱落、力を持つ人間たちによるゾンビ狩りなどなど、ロメロの『ゾンビ』をなぞったエピソードが次々に登場する。

 しかしこの映画は『ゾンビ』の日本版を作ったわけではなく、『ゾンビ』の世界観や設定を借りて、格闘技(柔術)の伝習に励むアフロとハゲの師弟コンビの姿を描いている。ゾンビの出現で世界が滅ぶことなど、この師弟には無関係だ。「柔術こそ最高の格闘技であることを証明する!」というのが師弟の願いであり、ゾンビの出現やゾンビ・ファイトの存在は「柔術最強」を証明するための舞台装置でしかない。

 原作は未読なのだが、この映画を貫く基本的な態度は、自分の興味や関心の外側にある物に対しては、徹底的に無関心でいられる人間の淡白さだ。これは「冷淡さ」とは違う。この映画に登場する師弟コンビは少々極端に誇張してあるが、似たような淡白さは、人間なら誰もが持っているのではないだろうか。人は自分自身を中心とした、半径3メートルぐらい(この距離は人によって違うだろう)の範囲内で生活している。遠い外国で何が起きようと、国会で何が論じられていようと、自分には関係のないことなのだ。ただしその結果が自分の意識の範囲内に現れれば、それについては必死になって何かしようとしたりする。

 映画の冒頭で主人公コンビは会社の上司を殺してしまうのだが、彼らはそれが犯罪だとか、警察に捕まったら大変だと考える前に、「死体をどうしようか」ということにしか関心がない。蘇った死体がゾンビになって襲ってきても、その超常現象に脅える前に、「柔術で対抗しよう」としか考えない。いくらなんでもこれは不自然なのだが、同じような不自然さは日常のどこにでも転がっている。例えばそれは、列車が脱線転覆する危険よりも発着時間の遅れを取り戻すことに必死になった電車の運転士の中にもあったことだろうし、大事故の現場から遅刻しないように会社に出勤した鉄道会社の職員にもあったものだ。世の中の大事より、目の前の些事に拘泥するのが人間なのだ。

12月頃公開予定 公開劇場未定
配給:東芝エンタテインメント
2005年|1時間43分|日本|カラー|シネマスコープ
関連ホームページ:http://www.tokyo-zombie.com/
DVD SpecialShop DiscStation 7dream_88_31 TSUTAYA online
ホームページ
ホームページへ