砂と霧の家

2004/10/22 GAGA試写室
誰も悪い人がいないのに登場人物全員がどんどん不幸になる悲劇。
いい映画。素晴らしい。でも後味は悪い。by K. Hattori

 役所の手続きミスで父の残した家を取り上げられてしまったキャシーは、弁護士を介して家を取り戻す手続きを始める。だがその間に家は競売に出され、イラクから亡命してきたベラーニ大佐の家族が住み始めてしまった。間もなく役所は手続きミスを認めて大佐に家の返還を求めるが、彼はこれを拒否して家を市場相場で買い戻すように要求する。大佐には大佐なりの事情があり、そうやすやすと家を返すわけにはいかないのだった……。

 新約聖書のヨハネによる福音書8章に、「姦通の女」と呼ばれる有名なエピソードがある。(以下の引用は新共同訳による。)人々がイエスの前にひとりの女を連れて来て質問する。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。これに対してイエスはこう答えた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。これを聞いた人々はひとりまたひとりと立ち去って、最後にはイエスと女だけが残されたという。これはなかなか痛快な話だ。しかしイエスに言い負かされてその場を立ち去った者たちは、その時心の内で何を考えていただろうか……。

 確かに自分は相手を責める立場にない。なぜなら自分も今責められている人間と同じ程度の間違いをしたり、正しくない行いをすることがあるからだ。世の中に完璧な人間などいない。誰にでも小さな落ち度や欠点はあるだろう。でもだからといって、結果の重大さに対して誰も責任を取れないというのはおかしな話ではないのか?

 映画『砂と霧の家』を観終わった観客は、きっとそれと同じような感覚を味わう羽目になる。この映画に登場する人々は、ごく普通の人々だ。とりたてて自慢できるような善人ではないが、他人から責められるような悪事を行っているわけでもない。良識も思慮分別も持ち合わせ、他人に対する愛情や優しさも持ち合わせていると同時に、見栄や外聞を気にしたり、傷つくことを恐れたりする弱さも持っている。この映画の主人公たちに対して、「それは絶対に間違っている!」「そんなことをしたお前が悪い」と堂々と言い切れる人は、よほどの厚顔無恥か世間知らずに違いない。少なくとも僕は、この映画の中の誰も責めることができないと思った。しかしそれでも、悲劇は起きる。

 登場人物に悪人がいないのは、コメディ映画としては望ましいことだ。しかし悲劇で同じことをやられると、観ているこちらはやりきれない。あえて欠点とは言えないほどの小さな落ち度や誤りが、その落ち度とは引き合わないほどの大きさで人間を打ちのめしてしまう事実。これはもう、数百ドルの滞納で家を1軒取り上げられるどころの騒ぎでは無かろう。いい映画だと思う。素晴らしいと言ってもいい。でも映画を観たあと、胸がざわついて落ち着かないのだ。

(原題:House of sand and Fog)

11月6日公開予定 丸の内ピカデリー2ほか・全国松竹東急系
配給:ギャガ・ヒューマックス共同配給 宣伝:ギャガ、スキップ
2003年|2時間6分|アメリカ|カラー|ビスタサイズ|ドルビーSR、デジタル
関連ホームページ:http://www.sunatokiri.jp/
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