デビルマン

2004/10/20 錦糸町シネマ8楽天地(シネマ7)
永井豪のカルトコミックを実写映画にする身の程知らず?
脚本の作りがまるでダメだと思う。by K. Hattori

 実写での映像化などまず不可能だと思われていた永井豪の同名カルト漫画を、『ビー・バップ・ハイスクール』の那須博之監督が映画化した作品。この原作は長い年月にわたって読み込まれてきた古典とも言うべき作品だし、その分だけ読者層の幅も広く、思い入れも深く激しいものがある。「デビルマン」を誰がどう映像化しようと、熱心はファンは絶対に「こんなの違う!」と文句を言うに決まっているのだ。そこにあえて挑み、火中の栗を拾うように映像化して見せた製作陣は、はたして勇気があったとほめるべきなのか、それとも身の程知らずの大馬鹿者だったのか……。それは出来上がった作品が誰よりも雄弁に語っていることだと思う。

 単行本5冊に渡る物語を2時間の映画に圧縮している。これを「そもそも無理だった」と言う人もいるだろうが、僕は必ずしもそうは思わない。ドストエフスキーだろうがトルストイだろうが、うまく2時間ぐらいにまとめてしまうのが脚本家の技術というものだ。「デビルマン」にしたところで、2時間にまとめようと思えばできたはず。要は原作の中から何を取りだし、何を捨て去るかだ。今回の映画では予算規模も限られているので、原作後半にある大規模なデーモン狩りや世界大戦の描写をそのまま映像化できないのは目に見えていた。ならば原作の中から、スペクタクル要素のないドラマを抽出すればいい。それは間違いなく、主人公・不動明と、親友にして宿敵となる飛鳥了の関係だろう。

 じつはこの映画の序盤には、製作者たちも同じことを考えていた痕跡が残っている。明と了という主人公を、双子の兄弟である伊崎央登と伊崎右典に演じさせたのもそうした意図からだろう。ふたりは劇中の台詞の中でも「顔が同じ」と言われているし、体力的に劣る明を了がかばい、しばしば暴走する了を明が止めるという関係性も映画のオリジナルだ。この映画は明らかに、明と了の愛憎関係を軸にドラマを組み立てようとしていた。だがこのコンセプトは、映画の途中であっけなく放棄されてしまう。映画が途中からドラマとしての求心力を失い、見るも無惨に解体していくのはそのためだ。

 たぶん脚本を何度も改訂しているうちに、当初のコンセプトが投げ出され、辻褄の合わない部分が多数出てきてしまったのだろう。まったくこの脚本はひどい有様だ。それは映画の序盤で「了は笑ったことがない」という台詞があるのに、映画の最後に「明が笑っている」という場面で終わることからも、そのデタラメぶりがわかるというもの。これじゃ話がつながらないよ。牧村家が襲われるシーンでは誰も「魔女」という台詞を発していないのに、美樹は勝手に「私は魔女よ!」と宣言し、殺されそうになると今度は「私は魔女じゃない」とつぶやく。まったくの空回り。シレーヌはいつの間にか消えるしな……。脚本がこのありさまでは、芝居もビジュアル処理も評価のしようがない。

10月9日公開 丸の内東映ほか全国東映系
配給:東映
2004年|1時間56分|日本|カラー
関連ホームページ:http://www.devilmanthemovie.jp/
ホームページ
ホームページへ