雨鱒の川

2004/10/07 メディアボックス試写室
子供時代の初恋をずっと守り育てた恋人たちの物語。
回想形式がうまく機能していない。by K. Hattori

 川上健一の同名小説を、『がんばっていきまっしょい』『解夏』の磯村一路監督が映画化した純愛ラブストーリー。自然に囲まれた北海道の小さな町で、幼なじみとして育った心平と小百合。聾唖という障害を持つ小百合だったが、不思議なことに心平とは言葉を介さずに意思を伝え合うことができるのだった。だが青年になったふたりは、否応なしに現実に向かい合わねばならなくなる。造り酒屋の跡取り娘である小百合と、両親を亡くした後も絵を描くことに夢中で仕事らしい仕事が何もできない心平とはとても釣り合わない。小百合の父から「東京で本格的に絵を描け」と諭された心平は、小百合を残して東京に出て行く。北海道に残された小百合は、蔵で働く別の男と結婚することになったのだが……。

 映画の導入部は素晴らしかった。野道を一生懸命に走っていく子供時代の心平と、それを温かい目で見つめる母の姿。「あんまり走ると転ぶわよ」と母が遠くから声をかけると、やっぱり子供は転ぶのだ。ここで映画を観ている側には自然な笑みが浮かび、それは子供を見守る母の笑顔と重なって、映画と観客の間にはごく自然にうち解け合うことができる。土のにおい、風の音、川の水の冷たさ、たき火の温もり……。子供時代に誰もが経験する、子供たちの視点から見た子供たちだけの世界。それがいきいきと描かれている。

 ところがこうした世界の心地よさは、突然断ち切られてしまう。物語はいきなり現代に飛ぶのだ。そして再び過去に戻り、最後はまた現代へ……。こうした脚本の構成が、僕にはちょっと納得できない。「過去→現在→過去→現在」という構成に何らかの必然があるのだろうか。これは普通に「過去→現在」としてもいい映画だと思うし、多少ひねるにしても「現在→過去→現在」で構わないのではないだろうか。

 現在から過去を回想していく形式は、観客があらかじめ「現在」を知っていることから、回想シーンには「なぜ現在の状況が生まれたのか?」というミステリーの要素がどうしても入り込む。そのミステリー要素が観客の視線を回想シーンに釘付けにするし、前もって知らされている結末に向けて登場人物たちが動いて行かざるを得ないことが、物語の悲劇性や喜劇性をより強める効果を生む。これは『タイタニック』でも『サンセット大通り』でも同じことなのだ。ところがこの『雨鱒の川』は、そうした回想形式の効果をうまく生かし切れていないと思う。

 『小さな恋のメロディ』みたいなラストシーンだが、これがバカバカしい絵空事に見えてしまうのは主人公たちの年齢が高いからではなく、映画全体がファンタジーとして成立しきれていないからだろう。舞台を北海道にするだけでは、ファンタジーは成立しなかった。これはまだ工夫の余地がある。例えば時代設定をもう少し前、昭和30年代〜40年代ぐらいに移すと、この物語も違和感なく成立するのかもしれない。

11月公開予定 アミューズCQN
配給:ミコット・エンド・バサラ 配給協力:シネカノン
2004年|1時間53分|日本|カラー|ヴィスタサイズ|DTSステレオ
関連ホームページ:http://www.amemasu.net/
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