風音

2004/06/15 松竹試写室
並行するエピソードの処理には別の方法があったかも。
面白い部分も多いんだけど……。by K. Hattori

 東陽一監督の新作は、沖縄の小さな島を舞台にした母と子と祖父母世代のドラマだ。戦争中に死んだ特攻隊員の頭蓋骨が、静かに海を見下ろしている風葬場の跡。そこに海から風が吹いてくると、頭蓋骨の横に空いている小さな穴に風が当たって「ホオオオオォ」という鳴き声を立てる。島の人たちはその頭蓋骨を「泣き御頭(なきうんかみ)」と呼んで、島の守り神のように考えていた。ところがその泣き御頭の横に、島の少年たちが度胸試しと賭けのためにひとつのガラス瓶を置いた。風の流れが変わったのか、この日から頭蓋骨はぴたりと泣かなくなってしまった。同じ頃、島には沖縄戦で死んだ初恋の人の面影を求めて、本土からひとりの女性が訪ねてきている。じつは泣き御頭こそ、その女性が探している相手に他ならなかった。

 物語を要約するのにちょっと苦労するのだが、それはこの映画の中で、互いに接点のない複数のドラマが並行しているからだ。ひとつは暴力亭主の手から逃れ、実家である島に逃げてきた母子の話。もうひとつは島にやってきた老女が、初恋の人の面影を求めて泣き御頭に対面する話。さらに泣き御頭となる若い特攻隊員のむくろを埋葬した男の話がある。これらのエピソードはすべて「泣き御頭のある風葬場」を通してつながっているものの、それぞれが何かの影響を与え合うような関係にはなっていない。バラバラのエピソードは、最後までバラバラのままなのだ。どこかで接点があるように見えて、ものの見事にすれ違って行く。

 映画の中で複数エピソードが同時進行していくことで、結局は映画作品としてのまとまりを欠くものになっているのではないだろうか。少なくとも僕はこの映画の中に、大きな物語を感じることができない。ひとつの映画を、複数のエピソードで分け合うことで、結局はひとつひとつのドラマが小さくなっているような気がする。母子のエピソードだけで通せば、それはそれで大きなドラマを生み出せもしただろう。本土から来た女性の話に絞れば、それも大きな話にふくらませることができたはず。でも映画はそうなっていない。

 脚本は原作者の目取真俊が自ら手がけているのだが、各エピソードを同時進行させずにキャラクターごとのオムニバス形式にした方がよかったかもしれない。『アモーレス・ペロス』ではなく、『彼女を見ればわかること』のような形式。その方が映画を観ている側はエピソードごとに割り振られた主人公にぴったり視線を合わせて、映画を観ることができるようになったと思う。映画の中でひとつの中に割り振る時間配分は同じでも、視点がぶれない分だけ、エピソードは大きくふくらんだのではないだろうか。

 たぶん同じ脚本からもすごい映画を作る人はいると思うが、今回の形式は東陽一監督の持ち味とは合わなかったのだ。悪い映画ではない。随所に忘れがたいシーンのあるいい映画だと思う。でもどこか物足りないよ。

6月12日公開 那覇・桜坂シネコン琉映
7月31日公開予定 ユーロスペース、テアトル新宿(レイト)
配給:シグロ
2004年|1時間46分|日本|カラー|スタンダード|DTSステレオ
関連ホームページ:http://www.cine.co.jp/fuon/
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