白いカラス

2004/03/24 GAGA試写室
脚本の構成が複雑すぎて観ていても非常に混乱する。
もっとシンプルにすればいいのに。by K. Hattori

 現代アメリカを代表する作家フィリップ・ロスの小説「ヒューマン・ステイン」を、『クレイマー、クレイマー』のロバート・ベントン監督が映画化したヒューマン・ドラマ。主演はアンソニー・ホプキンスとニコール・キッドマン。物語の舞台は現代のアメリカ(クリントン大統領の不倫疑惑が取りざたされていた1998年頃)だが、この映画が描こうとしているのはアメリカに今も残る「人種差別」の問題だ。

 マサチューセッツ州の名門大学の古典教授であり、学部長として学校の運営や改革に尽力してきたコールマン・シルクは、授業に出席しない学生を何気なく「彼らは幽霊なのかね?」と評したことで職を追われる。じつはここで彼が口にした「幽霊(spook)」という言葉には、「黒人」に対する蔑称という別の意味合いもあったのだ。欠席していた学生がたまたま黒人だったことから、シルクのこの言葉は「人種差別」として糾弾されることになってしまった。この騒動の中でシルクと長年連れ添ってきた妻が亡くなる。シルクは自分の身にふりかかった事件を小説にしようとするが、やがてそれ以上の大事件がシルクを襲う。彼は親子ほども年の離れた女と、人生最後の恋に落ちたのだ!

 脚本の構成が複雑すぎる。決して複雑な話ではないはずなのに、複数のエピソードが幾重にも折り重なった構成が、観る者の感情移入を阻む結果になっているように思う。映画は老人となっている現在のシルクと、ボクシングに熱中していた青年時代のシルクのエピソードを同時進行させる。だがそれだけではない、映画は自動車事故でシルクと恋人フォーニアが死ぬシーンから始まる回想形式。青年時代のシルクのエピソードは明らかにシルク本人の回想であるはずだが、映画自体はシルクに小説執筆を持ちかけられた小説家ネイサンの視点になっている部分もある。つまりこの映画は、視点と時制がバラバラなのだ。

 もちろん映画に複数の語り手がいてもいいし、それによって劇的な効果を生み出す作品もあるに違いない。でもこの映画の場合、ネイサンの語りという大きな箱の中に、シルクとフォーニアのエピソードという小箱が収まり、さらにその中にシルクの回想という小さな箱が収納されているという多重構造。この三重の壁を、映画は自由自在に行ったり来たりするのだが、生憎と映画を観ているこちらの気持ちは、それほど自由自在に視点を移動できないのだ。

 邦題の『白いカラス』というのは、黒人の両親から生まれたのに肌が白くて白人にしか見えないため、人種を「白人」と偽って生きてきたシルクのこと。黒人家庭に白い肌の子供が生まれるケースはアメリカの場合時折あるようだ。エリア・カザンとジョン・フォードは1949年に『Pinky』という映画を撮っている。自分の出自を隠して「白人」として生きることを選んだ黒人はかなりの数になるそうだ。

(原題:The Human Stain)

5月公開予定 みゆき座他・全国東宝洋画系
配給:ギャガ・ヒューマックス共同配給
2003年|1時間48分|アメリカ|カラー|シネマスコープ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.white-crow.jp/
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