サクリファイス

2002/09/10 アウラ・スクリーニング・ルーム
世界を救うため男がとった行動は周囲にどう見られたか?
タルコフスキー監督の遺作となった映画。by K. Hattori

 ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキー監督が、1986年にスウェーデンで撮りあげた遺作。1932年生まれの監督は、この年12月28日にパリで亡くなった。死因は肺ガン。享年54歳だった。タイトルの『サクリファイス』とは、「神への生け贄」や「犠牲」という意味だ。映画の冒頭にダ・ヴィンチの「東方の三賢者の礼拝」が登場し、バッハの「マタイ受難曲」が流れ、物語の導入部に「はじめに言葉ありき」というヨハネによる福音書の冒頭部分が引用されていることからもわかるとおり、この『サクリファイス』の中にはキリストの受難というエピソードが地下水のように流れている。物語はキリスト受難劇を正確になぞるわけではないが、ひとりの男が世界を救うために我が身を犠牲にするという筋立ては同じだ。だがキリストと異なり、この男の犠牲は感謝も評価もされぬまま、精神病の発作として処理されてしまう。

 海沿いの小さな家に暮らすアレクサンデルという初老の男が、この映画の主人公だ。高名な役者としての人生を捨て、今は評論家や大学教授として暮らしている無神論者。そんな夫に妻は不満を感じている。夫婦仲はあまりよくない。アレクサンデルの愛情は、つい最近のどの手術をしたばかりの幼い息子だけだ。言葉を発することができない息子に向かい、アレクサンデルは自分の思いを語り続ける。大小の不満はあるが、まずまず穏やかで平和な暮らしだ。だがその日々は、激しい轟音と床に飛び散ったミルクによって寸断される。ミサイル戦争が勃発したのだ。やがて世界は滅びるだろう。電話も電気も不通になる。死の恐怖におびえる家族や友人たち。アレクサンデルは家族を救うため、信じていなかったはずの神にある願い事をするのだが……。

 この映画のラストは、少々意地悪だ。アレクサンデルが神に祈り、その願いが聞き入れられたため、彼は約束どおり自分自身を犠牲にする。ところが映画を観ていると、世界破滅というエピソードがはたして現実だったのか、それともアレクサンデルの見た幻影、あるいは夢だったのかが判然としない。滅びてゆく世界はそれまでの映像と異なり、極度に色を制限して描かれ、最後には完全なモノクロームの世界になってしまう。これは映画を観る者に「現実とは違う別の世界」を感じさせる。もしこれが夢だったとしたら、夢の中での出来事の結果として、アレクサンデルは取り返しのつかない犠牲を支払ったことになる。まさに狂気の沙汰だ。彼ははたして救世主なのか? それともただの狂人なのか? その境界線は曖昧であり、混沌としている。

 しかしこの曖昧さや混沌こそが、この映画で描きたかったことなのだろう。そもそもキリストが十字架の死によって全人類の罪を贖ったという信仰だって、信者以外の人間にとっては与太話にすぎない。偉大な行いは、常に狂気すれすれのところにある。

(原題:Offret / Sacrifiacatio)

2002年11月16日公開予定 シアター・イメージフォーラム
アンドレイ・タルコフスキー映画祭
配給:フランス映画社 企画・宣伝・問い合せ:イメージフォーラム
(1986年|2時間29分|スウェーデン、フランス)

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