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2002/08/06 シネカノン試写室
ひきこもりの兄の気持ちを理解しようと奮闘する弟の気持ち。
作り手が当事者になる異色のドキュメンタリー。by K. Hattori

 テレビド番組のキュメンタリー取材で、しばしば「やらせ」が問題になる。ドキュメンタリーは、対象と節度ある距離を保たなければならない。ドキュメンタリーは、取材対象に直接働きかけることを慎まなければならない。ドキュメンタリーは、取材対象に対して常に第三者として公平性を保ち、決して問題の当事者になってはならない……。ドキュメンタリーをそんな風に定義している人から見ると、この映画の手法はひどく邪道に思えるだろう。

 この映画は取材する側が対象に強く働きかけ、取材者がそこに行かなければ起きなかった事件をわざわざ引き起こす。この映画にはあっと驚くようなドラマが記録されているのだが、その出来事はこの取材がなければ起きなかっただろう。そもそもこのドキュメンタリーは、この「ドラマ」を引き起こすことを意図して作られたものなのだ。映画の中に「取材する者」と「取材される者」という境界線は最初から存在せず、カメラを抱えてこの現場に行った人間は最初から出来事の「当事者」としてカメラの前に姿と声をさらすのだ。

 監督の小林貴裕は日本映画学校の卒業制作としてこの映画を作った。取材対象になっているのは、長野県にある彼の実家だ。そこには高校卒業以来ひきこもりをつづけている兄と、家の中で荒れる息子を持てあまして鬱病に苦しむ母がいる。(別棟には末期ガンの祖母もいる。)小林監督はこの家にカメラを持って乗り込んでいくことで、袋小路に入り込んでいる“我が家”の状態に何らかの突破口を開けるのではないかと考える。家の中で大声で母親に怒鳴り散らす兄と、そんな兄の様子におびえきっている母を見て、監督はこの事態を打破するために自分自身が何かをしなければならないと痛感する。彼はカメラを片手に、兄がこもる部屋の中におずおずと入り込んでいく。

 「社会的ひきこもり」というのは話としてはよく聞くけれど、その実態が知られることはあまりないように思う。何しろ社会との接触を断って自分の部屋や家の中に閉じこもってしまうのだから、その実態は当人と家族以外からまったく見えなくなってしまうのだ。だがこの映画は、そこにカメラが入り込んでいく。これは家族だからこそ出来たことであると同時に、家族であるがゆえに気持ちの上での抵抗も大きかっただろうと思う。第三者は取材さえ終ってしまえばあとは他人だから、取材に対して蛮勇をふるうことが出来る。言い方は悪いが「あとは野となれ山となれ」で構わない。だが家族の場合そこで起きることについて、後々まですべての責任がのしかかってくる。家族だからこそ、カメラを向けられることで生じる不快感や不安感もよくわかる。触れてはならない領域に、カメラ片手に入り込んでいくことへの遠慮もある。
 
 この映画に描かれている事柄より、この映画を作ってしまったことそれ自体の方がすごいと思わせる映画でした。

2002年10月公開 BOX東中野
配給・宣伝協力:ボックスオフィス
(2001年|1時間4分|日本)

ホームページ:http://www.mmjp.or.jp/BOX/

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