月の光の下(もと)に

2001/10/31 オーチャードホール
ホームレスたちとの交流を通して信仰に疑問を持つイスラム神学生。
イラン国内でのイスラム信仰の揺らぎを描いた野心作。by K. Hattori

 1979年の革命でイスラム法に基づく祭政一致の共和制国家を作り上げたイランは、国家の基盤をイスラム原理主義に置いている。現在隣国アフガニスタンでは同じく原理主義の祭政一致国家を作ろうとしたタリバンが世界中から袋だたきにあっているが、イランも20数年前から世界中の袋だたきにあいながらイスラム法に基づいた国家運営を維持し続けたのだ。そんな国なら、さぞやイスラム教の聖職者たちは国民から尊敬されているに違いないと思いきや、じつはそうでもないらしい。

 大都会にあるイスラム神学校に通うセイエドは、卒業を目前にして自分の進路に迷いを感じていた。故郷の家族は彼が聖職者になることに多大な期待をしているし、彼自身もイスラムの教えそのものに疑問を持ったことはない。しかし彼は学校の教師も含め、自分の周囲にいる聖職者たちにうさんくさいものを感じている。はたして自分は聖職者として何ができるのか。情熱を持って入学してきた時と同じ熱意や意気込みを、セイエドは既に失っている。迷いを捨てきれないまま町に聖職就任式用の僧衣や靴を買いに出た彼は、その帰り道、地下鉄で出会った少年に買ったばかりの衣服一切を盗まれてしまう。少年を追いかけたセイエドは、それまでまったく知らなかった都市の裏面と向かい合う。客を引く娼婦や橋の下で暮らすホームレスたち。彼らの姿を見るうちに、セイエドは自分自身の信仰にも疑問を持ち始めてしまう。

 映画の検閲など文化統制が厳しかったイランでは、最近少しずつその統制が緩やかになっているという。それでもこの映画は、かなり挑発的な作品ではないだろうか。イスラム教の聖職者という政治的にアンタッチャブルな領域をモチーフにしているし、失業者、娼婦、ホームレス、ストリートチルドレンなど、社会生活からこぼれ落ちてしまった人たちが大勢出てくる。あろうことか主人公の男は、そうした人々との交流を通してイスラムの信仰にさえ疑問を持ち始めるのだ。「神は弱者を救っていないではないか!」「社会の歪みを神はなぜ放置しているのか!」という疑問。もちろんこうした信仰の揺らぎは、セイエドという男の信仰が固められるまでの一時的なものとして描かれる。ホームレスたちのコミュニティはある種のファンタジーとして描かれているし、主人公はそのコミュニティに触れることで、精神的な死と再生を経験することになるわけだ。

 大都市で暮らす貧しい人たちの生活やストリートチルドレンの問題などは、イラン映画に珍しいものではない。この映画がテーマにしているのは、イスラム教の信仰そのものであり、物質的にも文化的にも西欧化しつつある現代イスラム社会での宗教の意味なのだ。しかしイスラム教における聖職者の役割や位置づけというのが僕にはよくわからないので、この映画についても釈然としないところが多かった。そもそもイスラム教での「神」の概念が僕にはわからない。非イスラム圏の住人にとって、隔靴掻痒気味で欲求不満の残る映画だと思う。

(英題:Under the Moonlight)

東京国際映画祭・コンペティション部門
(上映時間:1時間36分)

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