すべてが狂ってる

2001/01/17 日活試写室
鈴木清順が昭和35年に撮ったヌーベルバーグ風の青春ドラマ。
優等生だった青年がどん底へと落ちて行く。by K. Hattori


 鈴木清順監督が昭和35年に撮った青春映画。母子家庭に育った青年が悪い仲間に誘われるようにして転落して行くという暗い内容だが、ジャズを主体にした音楽や、当時の風俗をふんだんに盛り込んだファッション性、主演の川地民夫が持つ素朴で爽やかなキャラクターなどもあって、救いようがないほど陰々滅々という印象からは遠い。話が暗くなればなるほど画面の構図がスタイリッシュで様式的なものになるとか、心理的な葛藤や緊張をはぐらかすかのような人物の動きが、時は笑いすら誘うのは監督の狙いなのか? すっかり世間ズレして世の中全体に反抗してみせる主人公やヒロインより、「僕は次郎君とじっくり話してみるつもりなんです」と生真面目に言い切る芦田俊介の方がよほど青臭く見えてしまうのはなぜなんだろうか。世の中は図々しく開き直ってしまったものの勝ちだ。主人公の母親やその愛人は世の中の不合理や社会の矛盾と格闘して苦しんでいるが、この映画に登場する奔放な若者たちは「世の中なんてしょせんこんなものだ」と居直っている。こうした気分は、案外現代に通じるものかもしれない。ただし大きな違いは、昭和35年の日本はまだまだ貧しく、現代の日本は不況だ何だと言いながらもずっと豊かになっていること。

 松竹ヌーベルバーグを意識した作品らしいが、貧しい工場労働者の青年と母親のエピソードなどは日活の文芸路線の色が濃いと思う。坂道のお屋敷で吉永小百合がちらりと登場するあたりも、文芸作品の匂いがする。このお屋敷に生まれ育った会社重役の御曹司が、一般工員に混じって働いているというエピソードがあるのだが、これは映画の中に何の役目も果たしていない。遊園地のシーンにも吉永小百合が出てくるけど、これもまったく意味不明。中絶のために金を欲しがる若い女のエピソードはともかく、その同棲相手の不人情ぶりや、それを責める友人のエピソードも、川地民夫の主人公とはとくにからんでこない宙ぶらりんなものになっている。原作は一条明で、脚本は星川清司。しかしこの映画の場合はこのゴタゴタした感じが、若者たちの風俗描写と相まって一種のエネルギーになっているのだと思う。エピソードを整理して、主人公が転落して行く道筋をきれいに整地してしまうのは簡単だろう。しかしそれはつまらない。あっちにゴチャゴチャ、こっちにゴチャゴチャした吹き溜まりのようなエピソードが集積され、その中でもみくちゃにされながら主人公が落ちて行くのがよいのだ。

 自分の境遇を語りながら突然泣き出すヒロインが、両手で顔を覆うのではなく、両手で顔を左右からはさみつけてつぶすシーン。海辺の別荘から出し抜けに始まる追っかけシーン。走っている車に突然乗ったり、包帯でぐるぐる巻きにされながらもブツブツと自らの正論の中に耽溺している芦田俊介。映画の中ではかなりシリアスなシーンなのに、こうした場面ではどうしたって笑っちゃう。ヒロインを演じた禰津良子は不思議な存在感があって、なかなか面白いキャラクターだと思った。

2001年3月公開予定 テアトル新宿
配給:日活 宣伝:スローラーナー


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