私が愛したギャングスター

2000/10/30 メディアボックス試写室
ケヴィン・スペイシー主演のユーモラスな犯罪映画。
もう少し面白くなりそうなものだけど。by K. Hattori


 アイルランドのダブリンに実在した有名な強盗、マーティン・カーヒルをモデルにした犯罪映画。もともとカーヒルの伝記映画を作ろうとスタートした企画らしいが、企画を煮詰める段階で主人公のキャラクターを膨らませるため実録路線を早々に放棄。この映画の主人公マイケル・リンチの人物像は実在のカーヒルに大きく依存しているが、暴力性や粗暴さを抑え、彼をユーモアのセンスとエレガントさを持ち合わせた“怪盗紳士”のように見せている。リンチを演じているのはケヴィン・スペイシー。監督は『ナッシング・パーソナル』のサディウス・オサリヴァン。なおカーヒルの伝記映画を作る権利はその後ジョン・ブアマンの手に移り、'98年に『ザ・ジェネラル』という映画が作られている。

 僕は『ザ・ジェネラル』を2年前の英国映画祭でたまたま観ていたので、どうしたって今回の映画と比べてしまう。マーティン・カーヒルはマイケル・リンチに変身することで、はたして魅力的な人物に変身できたのか。もし変身できていないとすれば、実録路線の放棄はあまり意味がなかったことになる。残念ながら僕は、この映画のマイケル・リンチにあまり魅力を感じられないのです。たとえケビン・スペイシーがこの役を優雅に洗練された男として演じていたとしても、『ザ・ジェネラル』でブレンダン・グリーソンが演じていた無骨なカーヒルの方が魅力たっぷりに思えてしまう。これは主人公の造形そのものの問題ではなく、映画の中で主人公をどのように配置するかという問題だと思う。

 例えば『ザ・ジェネラル』ではカーヒルを執念深く追い続ける刑事役にジョン・ボイトを配役し、男と男の意地の張り合いやぶつかり合いを通して、主人公の行動を支える信念を浮かび上がらせる。主人公の一言で自由自在に動き回る部下たちの姿を通して、主人公の指導力や人望の大きさを観客にダイレクトに伝える。主人公が強盗をする理由も貧しさから這い上がるためであり、彼の警察嫌いは少年時代から刑務所の中と外を何度も往復してきた生い立ちから生まれたものだ。ところが『私が愛したギャングスター』の主人公は反骨のピッピーであり、彼が強盗をしているのは「反権力」「反体制」「反組織」のための戦いであるかのように見えてしまう。「警察は敵だ!」と子供たちに教える場面に、それまでの人生を背負った重さがない。すべては口先だけなのです。

 主人公のキャラクターが強すぎて他の登場人物を威圧し、まるでケヴィン・スペイシーのワンマンショーのようになっているのは残念。彼の妻なり、彼を追う刑事なり、腹心の部下なり、弟なり、もうひとりかふたり軸になる人物を作った方が、主人公の人物像にも膨らみが出ただろうし、話にも奥行きや厚みが出てきたと思う。クライマックスの銀行強盗シーンは主人公のねらいがわかりにくいし、最後のオチも今ひとつ切れ味が悪い。

 こんなことなら、『ザ・ジェネラル』をどこかが買い付けて日本で公開してくれないかなぁ……。

(原題:ORDINARY DECENT CRIMINAL)


ホームページ
ホームページへ