フリークスも人間も

2000/10/27 シネカノン試写室
犯罪者の欲望に翻弄される少女と少年たち。
監督脚本アレクセイ・バラバノフ。by K. Hattori


 今世紀初頭のサンクトペテルブルク。鉄道技師ラドロフと愛娘リーザ。高名な医師スターソフと盲目の妻、そして夫婦の養子になっているシャム双生児のコーリャとトーリャ。互いに相手の存在すら知ることなく暮らしてきたふたつの裕福な家庭は、邪悪な欲望を持つヨハンという男によって崩壊離散する。ヨハンは人殺しを何とも思わない冷酷な男。腹心の部下ヴィクトルと若いカメラマンのプチーロフと共に、若い娘をむち打つSM写真を撮影して売りさばいている。その顧客の中に、スターソフ医師宅で働くメイドと、ラドロフの娘リーザがいた。ヨハンはラドロフ宅で主人の愛人兼メイドとして働くグリーニャと通じ、まずはハンサムなプチーロフを使ってリーザを誘惑。ラドロフが病に倒れて他界するや、堂々と家の中に上がり込んで自らリーザを犯し、部屋をSM写真のスタジオに作り替えてしまう。一方ヨハンの部下であるヴィクトルは、スターソフ家の夫人を誘惑して倒錯した欲望の虜にするや、シャム双生児を連れだし写真を撮っては小遣い稼ぎ。かくしてふたつの家庭は、ヨハンたちによってあっと間に食い物にされてしまう。

 話そのものはきわめて単純な部類だと思うが、語り口が斜に構えているため難解な印象を与える。登場人物を何人も登場させつつ、筋運びの中心になる主人公を置かず、物語をあるときはヨハンの視点で、ある時はリーザの視点で、あるいはヴィクトル、スターソフ、ラドロフなどの視点で、五月雨式に進行させていく構成。各人の物語がそれぞれ独立した、グランドホテル形式を採っているわけではない。各人の物語はそれぞれが独立して進行しながらある地点で入り乱れ、相互に少なからぬ影響を与えながら、最後は再びバラバラに終わる。エピソードは短く区切られながら次々に視点が変わるため、観客はどの登場人物にも感情移入できないだろう。これは普通の娯楽映画なら欠点になるが、この映画では観客の人物への感情移入を拒むため、あえてこのような構成にしてあるようだ。登場人物の置かれている状況や、その場その時の感情などを芝居や台詞で語らせず、一足飛びに字幕で説明してしまうという乱暴さも、画面全体のセピア調も、観客の感情移入を拒むための高等戦術だと思う。

 この映画が描こうとしているのは“映画”というメディアそのものなのかもしれない。全編がモノクロ。映画の導入部はサイレント映画のように人物がぎこちなく動き、観客は否応なしにこれが“映画”であることを意識させられる。ヨハンの仕事は最初のうちは写真撮影だが、途中からはシネマトグラフを使った映画製作に替わる。食卓では技師のラドロフが、映画の将来について一席ぶっている。サイレント映画風に始まった映画は、最後にレコードから流れる音楽とレコードの回転で終わる。

 犯罪者の乱暴狼藉に翻弄される少女と少年は、自由の身になった途端、屈辱的な過去を懐かしむ。地獄の日々に思えたものが、じつは幸福な日々だったのかもしれないという逆説。そんな皮肉に満ちた映画でもある。

(英題:OF FREAKS AND MAN)


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