淀川長治物語・神戸篇
サイナラ

2000/08/03 シネカノン試写室
98年に他界した映画評論家・淀川長治の少年時代を描く。
しかし映画はすっかり大林宣彦の世界。by K. Hattori


 一昨年11月に亡くなった映画評論家・淀川長治さんの伝記映画。もともと一周忌の昨年11月に、淀川さんが解説者としてレギュラー出演していた「日曜洋画劇場」の枠内で放送されたテレビドラマだが、この劇場版ではそれをボリュームアップし、新しい映画として生まれ変わらせているらしい。(そんなわけで、この映画の製作年は2000年になっている。)監督・脚本・編集・音楽(學草太郎の名義)は大林宣彦。共同脚本に大林監督の傑作『異人たちの夏』の脚本を書いた市川森一。出演者もスタッフもいつもの大林組です。大林作品を続けて観ていると、「あの映画のあの役者が今度はこんな役になった!」という発見があって面白いです。

 この映画は「淀川長治自伝」をベースに、生前の淀川さんがあちこちで書いたり語ったりした生い立ちや少年時代のエピソードに取材し、1時間46分というコンパクトな時間にまとめたもの。明治42年、淀川長治は神戸の有名な芸者置屋の跡取り息子としてこの世に生を受ける。母親は父の正式な妻ではなく、病弱な本妻に子ができないこともあり、子供を作るために家に入れられた身の上。つまり妾です。同じ屋根の下に本妻と妾が同居するという複雑な家庭環境。さらに芸者置屋という特殊な家業。その総領息子として乳母日傘で育てられた長治少年は、いつも映画館の一等席で最新の映画を観ながら、やがて「映画こそわが人生」との思いを胸に刻む。

 この映画の着眼点のユニークさは、映画の語り手である淀川長治本人の声を、少年時代の長治を演じた厚木拓郎に担当させていること。劇中で主人公が青年に成長しても、ナレーションの声は少年のまま。この映画は淀川長治という人物を「永遠の少年」と規定しています。映画青年ならぬ映画少年のなれの果てが、映画評論家の淀川長治なのです。世の中の苦しみも悲しみも、男女関係の汚さも残酷さも、すべて少年時代に映画から学んだ主人公は、身の回りでどんな事件が起きようと「映画と同じだ」「映画の中で起きることは現実にも起きるんだ」と感じる。映画こそが現実であり、現実はその写し絵。どんなに辛く悲しいことがあろうと、人生は長い長い1本の映画に過ぎない。そんな主人公の人生哲学を、ナレーションを少年にすることで強調します。

 物語は淀川長治の伝記ですが、その語り口は大林映画そのもの。特撮や合成や画像処理を大胆に使い、時代考証や一般的なリアリズムを無視して大林監督流の映像空間を作ってしまう手法は今回も健在。『SADA』で大林監督流の阿部定を描いた大林監督は、同じような手法で、今回は大林監督流の淀川長治を描いてみせる。いくつもの画像を画面上で合成し、コラージュ風に画面を作っていく手法を安っぽいと見る人もいるだろうが、これは確信犯。大林監督が作ろうとしているのは、覗きカラクリのように素朴な映像マジックなのです。子供のおもちゃ箱をひっくり返したような原色の毒々しさ。それが今回の映画には似合っていたように思います。


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