影武者

2000/07/28 フィルムセンター
撮影開始直後に主役が勝新から仲代達矢に交代した映画。
黒澤明は勝新太郎の何を恐れたのか? by K. Hattori


 この映画を観た勝新太郎は「俺が出ていればもっと面白い映画になった」という意味の発言をしている。撮影開始直後に主役降板された男の負け惜しみではない。これは紛れもない事実だ。僕がこの映画を観るのは2度目だが、それでも「主役が勝新だったら傑作になっただろう」と思う。この映画に登場する武田信玄と影武者の一人二役は、最初から勝新太郎のために書かれたものだ。それはもう、映画のトップシーンから歴然としている。威厳あふれる信玄と、その前で信玄に向かって悪態をつく影武者となる男。この対比。このコントラスト。信玄が近隣大名たちの造反に腹を立て、重臣にいさめられる場面で見せる感情の爆発と、その直後に見せる風流人としての穏やかな表情。屋敷の中で身の回りの世話をする若い侍たちに取り囲まれ、卑しい身分の元盗賊から、武田信玄その人へと一瞬で変身してみせるくだり。こうした人間の二面性は、勝新太郎の得意芸だった。この映画のシナリオは、最初から勝新太郎をイメージして書かれている。代役の仲代達矢はがんばっているが、その演技は勝新太郎のイミテーションのようで似合わない。仲代達矢には威厳ある大将は演じられても、その影武者である人品卑しい盗賊の表情が出せないのだ。

 勝新太郎がなぜ降板させられなければならなかったのか、勝新も黒澤監督も故人となった今、はっきりこれだとその理由を特定できるものではなくなってしまった。しかしその秘密は、案外この映画の中にそのまま描かれているのかもしれない。監督であり脚本家でもある黒澤明にとって、映画の中で自分自身の主張を代弁する「影武者」は勝新太郎だった。しかしその影武者が一人歩きをし始めて、主人である自分自身の思惑を超え始めたとき、黒澤明はこの映画の中の武田勝頼のような恐怖を感じたのではないか。道具であるはずの影武者に、逆に指図されている自分。『デルス・ウザーラ』以来5年ぶりに映画を撮る黒澤だが、日本での映画製作は『どですかでん』以来10年ぶりだ。ここで失敗は許されない。映画の製作現場を完全な自分のコントロール下に置くためには、勝新太郎という異分子を排除しなければならなかった。自分なりに役を研究し、シナリオを読み込み、演技プランを考え、『影武者』に描かれる武田信玄や影武者の盗人になりきってしまった勝新を、あろう事か黒澤明は撮影現場から放り出してしまった。そしてそのあと連れてきた仲代達矢に、勝新太郎のモノマネをやらせている。こんなことをやっても映画が破綻しないのは、脚本の強さと黒澤明の演出力の確かさだろう。でもこの映画には、それを超える力強さがない。すべてが黒澤明の考え得る範囲内で収まってしまい、それを打ち破るような破格の魅力がまったくなくなっている。

 この映画は海外でも公開されて高く評価されているが、心ある映画ファンなら「ここに勝新がいれば」とやっぱり思うんじゃないだろうか。仲代達矢の演技を観ていると、黒澤自身も撮影中そう考えていたように思える。


ホームページ
ホームページへ