續姿三四郎

2000/07/12 フィルムセンター
黒澤明のデビュー作『姿三四郎』の続編。
若い黒澤の物怖じしない実験精神。by K. Hattori


 黒澤明のデビュー作『姿三四郎』の続編。この映画を観たことで、僕は黒澤明が生涯に撮った全監督作品をスクリーンで観たことになる。(『明日を創る人々』は除く。)この映画は黒澤明にとって『一番美しく』に続く3作目で、黒澤は自伝「蝦蟇の油」で以下のように告白している。『「姿三四郎」がヒットしたので、会社はその続篇を作ってくれ、と云い出した。/ここが、商業主義の悪いところで、柳の下の泥鰌、という諺を映画会社の興行部は知らないらしい。/(中略)再映画化は、絶対に前の作品には及ばない、という事が実証されているにかかわらず、未だにこの愚行を繰り返している。これこそ、正真正銘の愚行である。/再映画化に当る人は、前の作品に遠慮して作るのだから、食べ残しの料理を材料にして変な料理を作るようなもので、そんなものを食べさせられる観客こそいい面の皮である。/「続姿三四郎」は、再映画化ではないから、まだましだったが、それにしても、二番煎じには変りがなく、私は、それを作るためにむりやり創作意欲をかりたてねばならなかった。』監督であり脚本家でもある黒澤明本人がここまで言うのだから、当人としては不本意な映画だったのだろう。しかしこれはきちんと黒澤の作品歴の中に残されている。『明日を創る人々』のように抹殺されていない。そういう意味では、黒澤なりにこの映画に込めた思いなり創意工夫なりがあったということだろう。事実、この映画はかなり面白い映画に仕上がっていると思う。

 僕はこの映画から、若い黒澤明の才気走ったテクニックを読みとる。『姿三四郎』はひとりの青年の成長譚という物語の面白さで最後まで映画を引っ張るが、この『續姿三四郎』は映画作りのテクニックで観客を最後まで飽きさせない。映画冒頭で姿三四郎が不良外人を投げ飛ばすくだりのユーモア。アメリカ領事館の中で行われているボクシングの試合の迫力。細かくカットを割ってアクション・シーンを組み立てていく手法は定石通りだが、その定石がまったくできない監督は今でも大勢いる。この映画から伝わってくるのは、黒澤明のアクションに対する天性の感覚だ。

 またこの映画には、台詞なしに映像だけで物語や時間経過を表現する、サイレント映画風のテクニックが随所に使われている。人力車夫の少年が道場に入門してめきめき腕を上げる場面。三四郎が宿敵檜垣との戦いを想定して稽古をする中で、少しずつ道場の隅に追いつめられていくことで彼の心理を表現する場面。ボクシングの試合で勝った三四郎が、柔術家に賞金を渡す場面などは、今の映画なら必ず台詞を入れて描くところだと思う。でも黒澤はここで、台詞を用いずに芝居を進めるという実験を行う。黒澤はもともとサイレント映画を観て育った世代だが、彼の映画の中でも、この映画ほどサイレント映画の強い影響が感じられるものはないと思う。この当時の黒澤は実験精神が旺盛で、この映画の次には『虎の尾を踏む男たち』を撮っている。やはりすごい人だ。


ホームページ
ホームページへ