リプリー

2000/05/26 松竹試写室
名作『太陽がいっぱい』をアンソニー・ミンゲラが再映画化。
主人公を同性愛者にしたのが今風か。by K. Hattori


 1960年に『太陽がいっぱい』というタイトルで映画化されたパトリシア・ハイスミスの原作を、『イングリッシュ・ペイシェント』のアンソニー・ミンゲラが脚色・監督した話題作。『太陽がいっぱい』ではアラン・ドロンが演じていた主人公トムを、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』のマット・デイモンが演じている。共演は『イグジステンズ』のジュード・ロウ、『恋に落ちたシェイクスピア』のグウィネス・パルトロウ、『エリザベス』のケイト・ブランシェットなど。ヨーロッパで恋人と遊び暮らしている息子を連れ戻してほしいとアメリカ人の富豪から依頼されたトム・リプリーは、大学時代の友人と偽って放蕩息子ディッキーに近づき、まんまと彼の友人になってしまう。太陽にように明るく、周囲に自分の魅力をアピールするディッキーに、トムは即座に惹かれていく。彼をアメリカに連れ帰るという仕事を忘れ、ディッキーとの暮らしが永久に続けばいいとさえ思うトムだが、やがて束の間のバカンスは終わる。トムは自分から去ろうとするディッキーを殺し、サインを偽造して彼に成りすまそうとするのだが……。

 映画『太陽がいっぱい』からホモセクシャルな関係を読みとったのは故・淀川長治の慧眼だが、今回の『リプリー』は前作で隠されていたトムの同性愛傾向を前面に押し出し、彼がディッキーを殺した理由を「振られた腹いせ」にしてしまった。貧しい青年が金持ちのぼんぼんを殺して彼の持ち物をすべて奪いつくすというルサンチマンの物語は男同士の痴話喧嘩に姿を変え、主人公が身分を偽ったりサインを偽造したりするのも犯罪の隠蔽工作ではなく「愛する人と一体になりたい」という愛情の現れとして表現されているように思う。『太陽がいっぱい』はフランス映画だから、階層格差や貧富の差が犯罪を生むという物語が描けても、ハリウッドでリメイクする際には「貧乏人が金持ちを殺す」という物語では商品にならないということなのだろうか。

 僕は今回の映画がゲイの話だとはまったく知らないまま映画を観たので、まずはその点に驚いてしまった。でもゲイ映画としての『リプリー』は、ずいぶんと底が浅くないだろうか。僕はディッキーとトムの関係を描く映画の前半がすごく面白いと思った。ディッキーはマージという美しい恋人がいながら、女を見れば手当たり次第に口説いている女たらし。そんな彼がトムの出現によって、自分自身の中にある同性愛傾向に少しずつ目覚めていく。最初のうちはそれを面白がっていたディッキーは、やがてそんな自分の性向を恐れてトムを避け始める。自分が同性愛ではないことを証明するため、ことさらトムに冷たくし、彼との接触を「気持ち悪い」と言う。それまでは結婚などまっぴらだと言っていたのに、急に結婚を決めてしまう。トムはそこにディッキーの裏切りを感じて彼を殺してしまうのです。ここまでは面白い。映画の後半でも「殺した後も愛している」というトムの気持ちが描けていれば、この映画は傑作になっていたかも。

(原題:The Talented Mr. Ripley)


ホームページ
ホームページへ