REQUIEM of DARKNESS
クラヤミノレクイエム

2000/04/02 中野武蔵野ホール
寂れた映画館を舞台にした異色のヤクザ映画。
同時期に上演されていた舞台版との比較。by K. Hattori


 劇団“STRAYDOG”の舞台を、主催者であり作家であり演出家でもある森岡利行が自ら映画化した作品。今回は映画の上映と同時期に新宿の小さな劇場で原作の舞台を上演している。試写室でも観た映画版の感想を自分のホームページに書き込んだところ、劇団のスタッフがどういうわけか感激してくれて、映画と同じスタッフが出演する舞台版にも招待してくれた。それを観たのが30日の木曜日。しかしこの舞台、厳密に「映画の原作」と言えるのかどうかはわからない。舞台の初演は1994年で、その後'97年と'98年に再演されている。今回の舞台は4度目の上演と言うことになるらしいが、映画化に際してアレンジした設定を、舞台版にフィードバックさせている部分もあるという話だ。映画館主の娘は、もともと「息子」という設定だったらしい。映画版で娘にしてみたら結構よかったので、舞台でも女の子が登場することになったという。芝居はその時々の状況や気分や役者によってどんどん姿を変えていく。それが面白い。

 歌あり踊りありギャグありという舞台版に比べると、映画版『REQUIEM of DARKNESS』はずっとシリアスでストレート。コミカルな場面がほとんど姿を消してしまった。舞台版では登場人物たちの感情の起伏がもっと激しいが、映画はリアリズムなので芝居のトーンをかなり押さえ込んでいる。場面によっては、抑制しすぎではないかと思うほどだ。映画と舞台の違いは、双方に共通して登場する恵梨香というヒロインの設定変更に顕著に現れている。舞台版の恵梨香はウサギのぬいぐるみを着た頭の弱いサンドイッチガールという設定で、物語の中では場の雰囲気を和らげるコメディリリーフの役回りも果たす。しかし映画版では飲んだくれの風俗嬢という設定で、リアルになった反面、笑えるところはないのです。こうして失われたコメディ要素を補う意味で、映画館親子の息子を、元気な娘に変更したのは正解だと思う。

 舞台版のクライマックスを観てしまうと、映画版のクライマックスはボリューム感がないようにも思う。舞台では『太陽がいっぱい』のテーマ曲、マリリン・モンローのポスター、波の音、妹の独白、舞台上に降り注ぐ本物の雨、恋人の出現などが見事にかみ合って感動を盛り上げるのだが、映画版は妹の台詞だけに頼っている。しかも映画では、妹が台詞を言う場面での顔の向きがおかしいと思う。彼女は兄の顔についた血糊をふき取った後、死んだ兄の顔から目をそらしてハワイの話をし、その後兄に向き直って泣き崩れるべきです。ハワイの話は彼女が兄の死という現実から逃れようとする気持ちの表れなのだから、そこでは兄の死を正視できない彼女を描くべきなのです。ちなみにこの場面、舞台版ではちゃんと目を逸らして台詞を言ってます。

 恋人のケイがイサオを迎えに来る場面の感動が映画版で薄い理由がよくわからないんだけど、これはスーツの汚れ具合に関係あるのかもしれない。舞台版のスーツは汚れながらも白く見えるけど、映画版は汚れすぎです。


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