地上ここより何処どこかで

2000/03/28 FOX試写室
スーザン・サランドンとナタリー・ポートマン主演作。
主人公が最後まで好きになれない。by K. Hattori


 スーザン・サランドンとナタリー・ポートマンが母娘を演じるホームドラマ。モナ・シンプソンの小説を『ジュリア』『普通の人々』でオスカーを受賞したベテラン脚本家アルビン・サージェントが脚色し、『ジョイ・ラック・クラブ』『スモーク』のウェイン・ワンが監督している。田舎町での地味な生活に堪えきれず、夫と別れてロサンゼルスに向けて出発した母親アデルと、否応なしに彼女と同行する羽目になった十代の一人娘アン。都会での華やかな暮らしを夢見るアデルは、ロスに行きさえすればバラ色の人生が待ちかまえていると確信している。一方アンは、そんな母親が嫌で嫌でたまらない。母親の気まぐれのために、なぜ自分が犠牲にならなければならないのかと思っている。

 子供は親を選べないし、親が子供をどう教育しようと、思い通りの人間には育たない。世界中でもっとも気心の知れた相手でありながら、どうしても我慢できない嫌な部分も目に入ってしまうのが親子関係です。赤の他人なら適当な距離を保って上手につき合うこともできるでしょうが、親子となればそうも行かない。ましてや子供がまだティーンエイジャーで、好むと好まざるとに関わらず親に依存して生活するしか術がない場合などは、子供の親に対する嫌悪感は殺意に近くなる。親だって馬鹿じゃないから、子供が自分をどんな目で見ているかぐらいわかります。でも関係を解消するわけには行かないから、ごまかしながら生活に折り合いを付けて行くしかない。

 世の中にはそこそこうまく行っている親子関係の方が多いとは思いますが、少なくともこの映画に登場するアデルとアンの関係は最悪です。この映画がアンの視点から描かれていることもあって、物語の最初から最後まで、アデルの嫌なところや愚かなところがたっぷりと描かれている。自分の都合と思い込みだけで行動し、娘を引きずり回すアデル。アンは穏やかで平和な普通の生活を望んでいるだけなのに、アデルは波瀾万丈のドラマチック人生を望んで、その渦中に娘もろとも飛び込んでいく。もちろん、アデルは娘を虐待しているわけではないし、高圧的に自分の価値観を押しつけているわけでもない。世間には親からの暴力や虐待にさらされているケースもあるのだから、そうした人たちから見れば、アンの悩みは贅沢すぎるのかもしれないけど……。

 アデルの行動原理は単純です。ウィスコンシンの田舎町は「自分のいるべき場所じゃない」し、優しい夫は「私の伴侶として似つかわしくない」し、仕事は「私に向いていない」のです。彼女は目の前の現実と折り合いを付けて生きるのではなく、理想とする場所を探して次々に移動していくタイプなのです。現状に常に不満タラタラという人は世の中に大勢いるけれど、アデルのすごさは明確な目標を設定し、そこに向かって突き進んでいくことかもしれません。本人はそれでもいいでしょうけど、周囲の人はくたびれます。僕は映画の最後まで、アデルのことが好きになれませんでした。

(原題:ANYWHERE BUT HERE)


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