心の中

1999/11/11 ぴあ試写室
映像の断片で作られたパッチワーク・キルトのようなアートフィルム。
僕にとってはひどくひどく退屈な映画だった。by K. Hattori


 東京国際映画祭の「NEW CINEMA FROM JAPAN」というカタログにも載っていた作品で、そこではこの映画が「アートフィルム」と紹介されていた。監督は大木裕之。ドキュメンタリー的に撮影された映像の断片をつなぎ合わせ、常に複数の映像や音声をオーヴァーラップさせた実験的映画で、ストーリーはおろか、今その場で何が行われているのかすら把握できない。英語の字幕は付いているが、肝心の日本語はほとんど聞き取れない有様。これは確かに「アート」というジャンルに入れるしかない映画です。ドラマではなく、ドキュメンタリーでもなく、それでいて紛れもなくこれは映画なのです。しかしこれは、我々が考えている「映画」という枠組みの外にいる映画です。フィルムに記録された映像や音声を、映写機を通してスクリーンに上映するという「形式」があるから、これは「映画」と名乗っているにすぎない。この作品に近いのは、現代アートの世界で作られている「ビデオアート作品」だと思う。

 上映時間は約1時間半。正直言って、これをじっと観続けるのはかなり大変です。二重三重にオーヴァーラップされた映像は、素材になった映像がそもそも8ミリや16ミリやビデオで撮影されたもの。この映画はそれをビデオを使って合成し、最後にキネコで16ミリのフィルムに仕上げている。音は悪い。映像も粗い。台詞は聞き取れないし、複数の映像が混じり合ってスクリーン上にある被写体をとっさには識別できないことすらある。印象に残るのは、パチパチというフィルム特有のノイズ(この映画は当然ドルビーなど使っていないのだ)、延々繰り返される波の音、下手くそなバイオリンや即興的なピアノ演奏。幾つかの映像は繰り返しスクリーン上に登場し、ほとんど何の変化も現れない。これは相当に眠たくなる映画です。これで眠るなという方が無理。僕は寝ました。たっぷりと30分。目を覚まして左右を見たら、左右の人も寝てました。

 現代アートはこの世にある具体的な何かを再現したり表現したりするのではなく、作者の思想や心情を表現する一手段になっています。目の前に突き出された「作品」を観ただけでは、それが何を意味しているのかを読みとることが難しい。作者自身がその作品について何かを語る場合もあるでしょうし、その作者や作品についてのよき理解者が、解説者として作品の意図を解き明かしてくれることもあるでしょう。残念ながら、僕はこの作品のよき解説者にはなれそうもありません。

 僕にとって、この作品は退屈なだけでした。映像がきれいなわけでもなく、音楽が美しいわけでもない。重ね合わされた個々の映像は、僕の中にあるどんな記憶や感情も刺激することがありません。僕がこの映画を観て感心したのは、こんな映画を一所懸命に作っている作者が存在するという事実に対してだけでした。完全に閉じた「自分だけの世界」をフィルムの上に構築しようとする情熱が、この映画からは感じられます。


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