大地と水

1999/11/04 ル・シネマ2
(第12回東京国際映画祭)
大都会で破滅してしまう素朴な恋人たちの悲劇……。
説明不足で図式的なストーリーが丸見え。by K. Hattori


 ギリシャの映画監督パノス・カルカネヴァトスの長編第2作。山奥の小さな村で愛を育み合っていた若い恋人同、ニコラスとコンスタンティナ。ふたりの愛の日々は、コンスタンティナの妊娠でピリオドが打たれる。妹の妊娠を知った兄は、銃を振り回してふたりの交際に反対する。コンスタンティナ本人も、中絶をきっかけにニコラスとの距離を少し置いてみると、彼のことが急に幼く思えてきてしまう。ニコラスはコンスタンティナに別れを告げられ、彼女の兄に追われるようにして身ひとつで都会に出てゆく。やがて都会に巣くうヤクザの世界に身を置いたニコラスは、そこでロシアから逃げてきたエレナという女と親しくなる。やがてコンスタンティナも都会で働きはじめ、街中でニコラスの姿を見付けるが……。

 田舎から都会に出て壊れてしまう人間の悲劇を、ニコラスとコンスタンティナというカップルの姿を通して描いた寓話的ドラマ。目的もなく都会に出てきたふたりに比べ、目的が明確なニコラスはたくましく都会でサバイバルする。やや図式的なストーリー展開ではあるが、登場人物たちのキャラクターはうまく描けているため、薄っぺらな教訓話には終わっていない。主役3人はストーリーに合わせて都合よく動きすぎる面もあるのですが、登場場面の少ない脇の人物がそれぞれ魅力的で、物語に微妙な陰影を与えている。水面を滑ってゆく沈みかけたボートなど、絵作りにも幻想的な部分があって時折ハッと驚かされました。これでもっと時間やエピソードの処理が巧みなら、見応えのある作品になったのでしょうが……。すべてがバランスよくうまい映画というのは、なかなかないものですね。

 この映画で一番わからなかったのは、時間の処理の問題。物語の中で何の説明もなしに時間が前後して、現在進行形のドラマの中に過去の回想や説明が突然割り込んでくる。特にそれが顕著なのはエレナのエピソード。彼女の物語はニコラスと出会ってからの「現在」と、それ以前の「過去」が入り交じってしまい、系統だった時系列のエピソードとして把握しにくいのです。彼女はどこから来て、なぜ追われているのか? コンスタンティナとエレナは対照的な人物として描かれていますから、エレナを追っている男は彼女の兄なのだろうか? どうもそういうわけでもなさそうだし……。

 脇の人物が魅力的な割に、この映画は3人の主役たちが何を考えているのかがよくわかりにくい。ふたりの女性の間で男が破滅するという単純な物語なのに、女性たちの対照的な生き方に明確な芯がないし、ニコラスがなぜふたりの女性の間でウロウロして自分を見失ってしまうのかもよくわからない。彼はコンスタンティナを拒絶する。母親や故郷も拒絶する。エレナと積極的な関わりを持つわけでもない。ニコラスは都会の泥沼に足を取られて、ずぶずぶと底なしの汚泥の中に沈み込んで行く。コンスタンティナの迎える悲劇的な結末も、ひどく唐突に感じられる。図式通りの結末なのです。

(原題:Homa Ke Nero)


ホームページ
ホームページへ