スプリット・ワイド・オープン
褐色の町

1999/11/02 ル・シネマ2
(第12回東京国際映画祭)
大都市ボンベイの暗黒面を暴く社会派のストレート・ドラマ。
ミュージカル・シーンはありません。by K. Hattori


 インドの大都市ボンベイを舞台にした社会派の小品。インド映画は歌って踊るミュージカルという印象が強いのですが(特にボンベイは映画製作のメッカです)、こんな映画を作る人もいるんですね。監督のデヴ・ベネガルはまだ30代の若い監督で、この映画のスタイルはハリウッドを中心とする欧米型のストレートなドラマになっています。行方不明になったストリート・チルドレンの少女ディディを探す街のチンピラKPの物語と、テレビの暴露番組(タイトルにもなっている「スプリット・ワイド・オープン」)で、秘密の性生活を語る視聴者たち。番組の司会者ナンディタは、いつしかKPの生活ぶりに興味を持ち、彼の周辺を取材しはじめる。

 この映画には、大都市ボンベイの裏の顔がたっぷりと描かれている。街を牛耳るマフィア組織が、街角の公共水道に勝手にチェーンを付けて住民たちから水道代を取るとか、ストリート・チルドレンがいかに大人たちに搾取されているかとか、秘密の少女売春組織とか……。TV番組では良家に隠された秘密のセックス・スキャンダルが次々と明るみに出され、やがてそれがKPの少女探しと接点を持ちはじめるという構成だ。

 監督の意図はわかるのだが、映画の内容は少し中途半端だと思う。暴露番組「スプリット・ワイド・オープン」があまりにも下劣な覗き見趣味なため、ヒロインのナンディタが社会正義を振り回すのが滑稽に感じられてしまうのです。ナンディタは聡明な女性だし、彼女の正義感も本物です。しかし番組のディレクターは最初から興味本位のスキャンダル番組を作っている。そうした認識のずれにナンディタがまったく気付かなかったとすれば、それはあまりにも彼女の認識が甘すぎる。番組の放送中にトラブルが起きて彼女があわてふためく場面で、司会者とディレクターの意識のずれは明白になっているのだから、それ以降の場面で彼女が番組の正義を振りかざすと、その台詞が陳腐に聞こえてしょうがない。

 たぶん監督はこの映画を通じてボンベイという大都会にある腐敗した現実をえぐり、それを問題提起しようとしたのだろう。さながら地獄巡りの感さえあるKPのディディ探しは、製作者たちが実際に取材した現実を反映しているのかもしれない。「ボンベイに入り口はあるが出口はない」という台詞や、ストリート・チルドレンたちの過酷な生活ぶりはかなり生々しい。ところがこうしたモチーフをTVの暴露番組と並べてしまうと、社会の残酷な現実も、金持ちの家のベッドルームで繰り広げられている痴態と相対化されてしまうのだ。

 監督にはまだ映画作りの経験が少ないので、娯楽性と社会性とのバランスの取り方に不慣れなのかもしれない。主人公がカメラ目線で話をする場面を挿入するなど、映画の中に新しいスタイルを取り込もうとする意欲はわかるが、それがあまり成功していないのだ。ハリウッドでなら、この内容で観客の胸を打つ社会派のエンターテインメントを作るだろう。ちょっと物足りない映画でした。

(原題:Split Wide Open)


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