連続殺人者の告白

1999/03/16 映画美学校試写室
犯罪者のインタビューや詩の朗読を使った異色のアート・フィルム。
イアン・ケルコフ監督の守備範囲の広さを感じる。by K. Hattori


 イアン・ケルコフ監督が1994年に製作した、連続殺人と暴力と人間のイマジネーションに関する異色ドキュメンタリー。音と映像のマッチングとズレを意図的に引き起こしながら、観る者の神経を挑発する作品だ。この映画は観客の耳の穴に、次から次へと暴力的な言葉を注ぎ込む。例えばそれは、シャロン・テート殺しで有名なチャールズ・マンソンの本、J・G・バラードの詩、テッド・バンティのインタビュー、殺人事件をモチーフにしたラップ・ミュージックなどだ。だが、それに付けられている映像は、それの説明にはなっていない。

 映画に登場するのは、イスに座った男がタバコを吸う姿、真っ赤な無地の画面、ポルノフィルムを自分の身体に映写しながらマスターベーションする男、ざらついた8ミリで撮影されている家族の姿などだ。インタビューに答えるように自らの身の上をしゃべり続ける男も登場するが、これはどうやら、インタビュー・テープにあわせて口を動かしているだけらしい。完全に映像と音がシンクロしているのは、「○○が××を殺し、××が□□を殺し、□□が△△を殺し……」と、鉄道唱歌のようにリレーして行くおじさんぐらいのものだ。

 オリジナルは35ミリのプリントらしいが、これも今回はビデオでの上映。しかし、今回試写で観たケルコフ監督の3作品の中では、これが一番面白かった。劇映画ではないし、純然たるドキュメンタリーでもない。あえて言えばアート・フィルムだと思う。インタビュー・テープを使って無関係な映像とコラージュする様子を見て、僕はスティーブ・ライヒのテープ音楽を連想してしまった。一方は映画、一方は現代音楽だけど、全体の文脈の中から一部分だけを取りだして反復させるところなど、方法論としては相通じるものがあると思う。

 この映画では、連続殺人鬼のインタビューや殺人についての詩について、何の解説も解釈も行っていない。音声に付けられている映像と同じく、それらは生の素材として、観客の前に放り出されている。最初はひどく異質で、自分たちの生活とかけ離れたものに思われていたそれらの素材が、映画を観ているうちに少しずつ親しみやすい、身近なものに感じられてくるのは不思議な感覚だ。連続殺人という非日常的行為は、我々の日常的な生活から、ごく薄い皮膜を隔てた隣に存在している。犯罪と平和な生活を隔てている皮膜は、何かの拍子に簡単に破けてしまう。この映画は、その小さな破れ目を通して、犯罪の世界を少しだけ覗かせてくれる。小さな隙間から全体像をうかがうことはできないが、皮膜の向こう側に蠢くものの確かなリアリティを、この映画は感じさせる。

 『獣のようにやさしい人』や『アムステルダム・ウェイステッド』のような劇映画と、『ヨハネスバーグ・レイプ・ミー』や『連続殺人者の告白』はまったく異なるジャンルの映画ですが、その中でイアン・ケルコフという監督の個性がきちんと発揮されているのが面白い。やはりこの監督は、ちょっと変わっています。

(原題:TEN MONOLOGUES FROM THE LIVES OF THE SERIAL KILLERS)


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