クンドゥン

1999/01/26 徳間ホール
チベット独立運動の最高指導者ダライ・ラマ14世の伝記映画。
きれい事すぎて政治の生々しさがない。by K. Hattori


 1989年にノーベル平和賞を受賞した、チベットの政治指導者ダライ・ラマ14世の伝記映画。監督はマーティン・スコセッシ。脚本を書いたのは、ハリソン・フォード夫人でもあるメリッサ・マシスン。出演俳優はオーディションで集められたチベット系の新人ばかりだが、喋っている言葉は全部英語。ほぼ同じ時代のチベットを描いていても『セブン・イヤーズ・イン・チベット』のように外国人が登場するでもないので、最初から最後まで、こと「言語」に関してはかなりの違和感がある。こうして英語映画にしたのは、当然、この映画の主な観客であるアメリカ人に配慮したものだろうが、はたしてこの映画、アメリカの普通の観客に受けたんだろうか。スコセッシというヒットメーカーが作った映画にしては、やけにつまらないという印象を僕は受けたのだが、この映画を面白がる人は、はたしているのだろうか。

 スコセッシは『タクシードライバー』『レイジング・ブル』『グッド・フェローズ』『カジノ』などで、都会の狂気や人間の弱さ、俗っぽさを、徹底して描いた監督です。同時に彼は『最後の誘惑』という、センセーショナルなキリスト伝を映画化した監督でもある。彼の中では、聖なるものと俗なるものが同居し、せめぎ合っている。『最後の誘惑』が物議をかもしたのも、彼がキリストを「聖なるもの」としてではなく、人間くさいひとりの俗物として描いたからでしょう。彼がチベット仏教の活仏ダライ・ラマを描くのは、このチベット人指導者の中に「聖なるもの」を見いだしたからに違いありません。しかしスコセッシであれば、その周囲にいる人間たちの「俗物ぶり」を徹底して描き出してほしかった。登場人物が聖人君子ばかりの伝記なんて、小学校の図書室にある「子供のための偉人伝」ではないか。

 チベット問題を、チベット側に肩入れして描くのは一向にかまわない。「冷戦を生き延びた共産国=中国への警戒感」も含め、それがアメリカ人のメンタリティーだし、ダライ・ラマ本人にはノーベル賞というお墨付きもある。しかし、やはりチベット側に大いに肩入れしていた『セブン・イヤーズ・イン・チベット』ですら描かれていた、チベット内部の中国シンパの問題など、ダライ・ラマ政権内部にあった生臭さを、一切描かなかったのはどういうつもりなんだろうか。ダライ・ラマ14世の政治家としての側面を取り上げるにあたり、政争の泥沼を描かずして、何が描けるというのだろうか。

 『最後の誘惑』を作る際、自分自身を「敬虔なカトリック信者」と言ってはばからなかったスコセッシは、おそらくダライ・ラマの中に「現代のキリスト」を夢見ているのだと思う。徹底した非暴力主義の強調に、それが顕著に現れている。ダライ・ラマの亡命前後に、チベットで大規模な武装蜂起が起きたことなど、この映画では一切描かれていない。おびただしく流された血は、ダライ・ラマの幻想と側近たちの言葉で説明されるだけだ。どうにも釈然としない映画だった。

(原題:KUNDUN)


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