いとこ同志

1998/11/12 TCC試写室
地方から出てきた大学生が都会の生活に翻弄される悲劇。
これはフランス版の『狂った果実』だ。by K. Hattori


 石原慎太郎原作の太陽族映画『狂った果実』を、フランスの大学生に置き換えたような、クロード・シャブロル監督の初期代表作。中平康監督の『狂った果実』は、石原裕次郎がやんちゃな兄、津川雅彦が純情な弟を演じ、弟が好きになった女性を兄が奪ってしまう物語だ。最初はどこかのお嬢様風に見えた女も、じつは米軍将校のオンリーさんだった。『狂った果実』は1956年に製作されている。シャブロル監督の『いとこ同志』は、その2年後の製作。遊び歩いてばかりいる大学生ポールと、その部屋に同居することになった同じ年の従兄弟シャルル。真面目なシャルルがフロランスという女性に一目惚れするが、ポールは彼女をシャルルから奪ってしまう。じつはフロランスも、過去に何人もの男と付き合ってきた札付きの女だったのだ……。

 じつの兄弟と従兄弟という違いこそあれ、『狂った果実』と『いとこ同志』は何と似ていることか。僕は最初、『狂った果実』が『いとこ同志』を真似したのかと思ったが、製作年を見るとどうも逆のようだ。『狂った果実』はトリュフォーの絶賛と共に海外でも紹介されているので、シャブロル監督がこの映画を観ていた可能性もある。トリュフォーとシャブロルは同じカイエ・デュ・シネマ派として親しい関係にある。シャブロルが『狂った果実』に影響されて『いとこ同志』を作ったという想像も、あながち荒唐無稽なものではないだろう。

 『いとこ同志』の前半は、確かに『狂った果実』に似ている。しかし、シャルルがポールとフロランスの関係を知って以降の後半は、まったくオリジナルなものだ。ガールフレンドをいとこに取られ、勉強でポールたちを見返そうと必死になるシャルルだが、ポールはカンニングで試験に合格し、シャルルは無惨にも落第してしまう。しかもシャルルは、最後にはポールに殺されてしまうのだ。シャルルは徹底した「負け犬」だ。しかしこの映画は、その負け犬に徹底的に感情移入し、世の不合理と不条理を描ききっている。なぜ善意の男が敗北し、快楽に身を任せる軽佻浮薄な男が勝利者となるのか。この世には、地道な努力に目を向けようとする人間はいないのか。神はなぜこんな不公平を放っておくのか。だがその問いかけに、教会は固く門を閉ざしたままだ……。

 この映画のすごさは、登場人物たちの曖昧さを、曖昧さ抜きに描いた点にある。人物たちを単純な善玉悪玉に分けず、それぞれの行動動機にも確固たる善意や悪意がないことを、じつにリアルに描いているのだ。もしポールやフロランスに明確な悪意があれば、この映画はもっと単純なものになる。ところが、彼らはもっと曖昧な気分で行動しているのだ。現実の生活の中で、明確な目的や意識を持って行動している人たちがどれだけいるだろうか。我々はボンヤリとした曖昧さの中で、毎日を送っているはずだ。「曖昧な人物」は、曖昧な脚本や演出では描けない。この映画は、登場人物たちの曖昧さを、明確な意識を持って描こうとし、それに成功している。

(原題:LES COUSINS)


ホームページ
ホームページへ