レッド・バイオリン

1998/11/05 ル・シネマ2
東京国際映画祭/コンペティション
一丁のバイオリンが時代を超えて世界を回り人々の運命を彩る。
巧みな構成力で見せるオムニバス劇。by K. Hattori


 17世紀のイタリアで作られた一丁のバイオリンが、次々と人手に渡りながら、現代のオークション会場に現われた。独特の赤いニスから「レッド・バイオリン」と呼ばれた名器の由来と因縁を、4世紀にわたって描きだした大作だ。物語はタロット・カードの5つの絵柄を通して、オムニバス風に語られてゆく。監督は『グレン・グールドをめぐる32章』のフランソワ・ジラール。カナダのオークション会場に現われたバイオリン鑑定人をサミュエル・L・ジャクソンが演じる他、世界各国の俳優たちが大挙して出演しているのも見どころだ。

 最愛の妻をお産で亡くしたバイオリン職人が、精魂を傾けて作ったレッド・バイオリン。それはやがて修道院の所持品として天才少年の手にわたり、少年の死後はジプシーに盗みだされて海を渡り、イギリスの作曲家に見いだされて演奏会で使用され、中国に渡って文化大革命を生き延び、カナダのオークション会場までやってくる。こうしてひとつの物を通してオムニバス風に物語を綴る形式は、古くは『運命の饗宴』があり、新しいところでは『ドレス』があったが、この映画は時間と空間のスケールでどれをも凌駕している。ストラディバリウスを例に出すまでもなく、バイオリンという楽器は数百年にわたって人の手から人の手に渡り、時代を越え、国境を越え、音楽を奏で続けるものだ。この映画はそれを、雄大なスケール感で描き出している。孤児院の場面や、ジプシーの群れの中で使われていたバイオリンが、次々人の手に渡ってゆくシーンは圧巻。特に後者は、画面のなかに演奏中のバイオリンを固定し、人間だけが次々に入れ替わってゆくという映像が印象的だった。このシークエンスは、いったいどうやって撮影したんだろうか……。

 各エピソードのなかでは、バイオリンが文化大革命を生き延びるエピソードが強い印象を残す。文革を劇中に取り入れた映画としては『さらば我が愛/覇王別姫』や『M・バタフライ』など幾つかの作品がすぐに思い出されるし、これらの作品では紅衛兵の大群を登場させるなど、大規模な撮影を行なっていた。しかし、文革の異様さがもっとも伝わってきたのは、じつは今回の『レッド・バイオリン』だったのだ。二十歳になるかならないかの若造たちが、文革の理念を振りかざして大人たちを翻弄する様子は、やはり異常であり狂っているとしかいいようがない。壇上で演説する少女が、西洋音楽を教える教師を吊し上げにして、バイオリンを火中に投じさせるくだりは、映画の演出云々以前に鳥肌が立つほど恐ろしいことだと思った。じつは当時の日本のマスコミは、こぞってこの文化大革命を礼賛していたのです。熱狂の渦中に入る人たちも恐ろしいけれど、それを無批判に支持した人たちも恐い。なんだか異様な時代でした。

 各エピソードはそれぞれ面白いのですが、最後のオチがいまひとつ釈然としない。バイオリンの長い旅は、本当にこれで終わったんだろうか? こんな終わり方で、本当によかったんだろうか?

(原題:The Red Violin)


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