気狂いピエロ

1998/08/24 徳間ホール
ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナ主演のカルト映画。
1965年のジャン=リュック・ゴダール作品。by K. Hattori


 映画史的には「ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画作家ジャン=リュック・ゴダールの代表作であり、映画史に残る傑作」ということになるのかもしれないけど、1965年製作のこの映画を、1998年の僕が観て面白いかと言うと、なんだかよくわからない判断保留状態に取り残されてしまう。映画冒頭にあるサミュエル・フラーの言を借りて「映画は戦場のようだ。愛・憎しみ・行動(アクション)・暴力・死。つまり感動だ!」と定義してしまえば、『気狂いピエロ』という作品はそのすべてが詰まった映画ということになる。この映画には、家族の風景、退屈なパーティー、再燃する恋の炎、殺人事件、暴力、交通事故、陰謀、裏切り、復讐などの要素が全部含まれているのです。

 物語だけを追って行けば、話はある意味で単純です。昔の恋人に再会して、家族を捨てて彼女と暮らそうとする主人公は、彼女の恋人を殺し、盗んだ車に彼女とふたりで乗り込んでどこまでも逃げて行く。しばらく平穏な生活を送っていたふたりだったが、やがて主人公は恋人に裏切られる。恋人を追いかけた主人公は、最後に恋人を殺し、自分もダイナマイトで自殺してしまう。たったこれっぽっちの物語を描くなら、もっとすっきりとした映画にも作れそうですが、ゴダールはそんな「普通」なことはしない。映画は観客の予想を常に裏切るように、極端なジグザグを描いて進んで行きます。

 映画を観ている観客というものは、ある程度映画の進んで行く進路を予想しながら映画を楽しんでいるものです。それがあまり予想通りなら「退屈な映画」と言われるし、あまり予想外のことばかりが続くと「ストーリー展開が強引な映画」ということになる。『気狂いピエロ』は明らかに後者ですが、それを無意識にではなく、意図して徹底させているところがすごい。映画を全部観終わって物語を振り返れば「ああ、なるほど」と思われるかもしれませんが、映画を観ているときは、次の瞬間に何が起こるかまったく予想できない。観客が予想した展開を拒絶し、右と言われれば左、左と言われれば右といった具合に、天邪鬼な展開に全速力で走って行く。

 物語を大胆に省略したり、カットの繋がりを無視して強引にフィルムを接いでいるため、映画の中の時間経過がわかりにくい個所がいくつかある。さまざまな実験的編集手法がうまく成功している場面もあれば、まったく意味不明のシークエンスになっている場面もある。今なら決して許されないであろう、大雑把な編集。しかしこうした大雑把さが、この映画の魅力なのかもしれない。

 じつは映画の中盤で少し眠ってしまい、物語のつながりがよくわからない場面がありました。でも寝る前に観ていた序盤も、目が覚めてから見ていた終盤も、物語はきちんと繋がってないんだよね。それより今日失敗だったのは、スクリーンがシネスコであることを知らずに、ホールの前の方の席に座ってしまったこと。字幕と画面を交互に見ていたのが、眠くなった原因かもしれません。

(原題:Pierrot Le Fou)


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