鬼畜大宴会

1998/06/05 徳間ホール
昭和40年代の左翼学生グループをモデルにしたドラマ。
自主映画界の話題作が劇場公開。by K. Hattori


 昭和47年に起こった赤軍派による浅間山荘事件と、その後発覚したリンチ殺人事件などをモデルに、左翼過激派の小グループが内部分裂と粛正で自滅して行く様子を描いた問題作。「浅間山荘事件」と「山岳ベースリンチ殺人事件」で死刑判決を受けた永田洋子あたりをモデルにしたらしい人物が、グループのリーダーが刑務所服役中にグループ全体を恣意的に運営し、それに反撥する元メンバーや、それと親しかったメンバーをリンチにかけて殺す。やがて殺人の狂気によってグループは崩壊し、最後はすべてが「消滅」してしまうのだ。

 もともとは、大阪芸術大学映像学科の学生たちが卒業制作に作った自主映画で、「ぴあフィルムフェスティバル」のPFFアワードでは準グランプリを受賞している。監督やスタッフはもちろん、出演している俳優たちも全員がアマチュア。当然、技術的には拙いところがあるのだが、それが逆にゴツゴツした手触りになって、映画に迫力を生み出している。映画の中盤以降、嫌というほど出てくる過激な暴力シーンは、描写がヘタに洗練されていないだけに、いかにも「アマチュアの殺人」という感じに仕上がっている。例えば、縛り上げて身動きができなくなったメンバーを、他のメンバーが何度も何度も足蹴にするようなシーンは、プロが普通に撮ると、もっとスマートになると思うのです。この映画では、暴力描写にまったくスマートさがない。相手の急所を捉えられないまま、ひたすら続く殴る蹴るの暴行は、泥臭く、映像としてはダサい。でもそのダサさが、陰惨な暴力の底にある狂気を浮かび上がらせてくる。ゆっくりと浮かび上がってきた狂気は、やがてグループ全体を支配するのだ。

 実在の事件に取材し、当時の事件の当事者たちと同年輩の若い学生たちによって作られた映画だけに、ここから何らかのメッセージを読み取ろうとする評者は多いに違いない。しかし僕は、ここから「暴力」というプリミティブな衝動以外に、何のメッセージも受け取ることができなかった。事件の主人公たちが当時共有していたはずの「革命思想=自分たちが行動することで世の中は変わるはずだ」という思考に、平成10年の映画青年たちは何の共感も持っていないという冷たい事実だけが、この映画からは伝わってくるのです。映画の作り手が興味を持つのは、人間の中にあるどす黒い感情の塊が、ふとしたきっかけで陰惨な殺人に結びつくプロセスです。殺人とセックスこそ、四半世紀を隔てた若者たちを結び付ける鍵になっているのです。

 赤軍派の事件をリアルタイムに知っている人たちから観れば、この映画に描かれているエピソードは一面的すぎるように見えるでしょう。「あの時代、若者たちはもっと高邁な理想のために戦っていたのではないのか?」という苦情も出そうです。でも、そうした歴史教科書的な事件解釈の裏側には、『鬼畜大宴会』に描かれているような部分も絶対にあるはずなのです。この映画の中にある生々しい感覚が、それを証明しています。


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