やわらかい肌

1997/12/10 ユニジャパン試写室
失われた家族を再生させようと奮戦する主婦を描くセックスコメディ。
意欲は買うがもう一歩踏み込み不足だなぁ。by K. Hattori



 バラバラになった家族を再生させようと、テレクラで知り合った青年に頼んで狂言誘拐を演じる主婦。理想的な家族を求める主人公の願いは、家族たちそれぞれの思惑と必ずしも一致せずに空回りする。突飛なアイデアの物語を通して、「現代人にとって家族とは何か」という問題を真面目に考えさせてしまう映画です。ただしその語り口が荒っぽくて、僕はあまり買いませんけどね。

 映画の中に、チェーンソーで家族を皆殺しにして指名手配されている少女が登場します。家族の一体感や親密な絆を求めている主人公に対し、この少女は自らの手でそうしたしがらみを断ちきった、正反対の立場の人間です。180度別の角度から家族と向き合っている二人の女性を、もう少ししつこく追いかけ、追いつめて行くことができれば、映画はもっと「家族」というテーマに肉薄できたと思う。今のままだと「いやいや、家族ってのは本当に大変だよね〜」という表面的な感嘆で終わってしまい、家族の内側にあるドロドロネバネバした実態に触れないままだ。家族像の表面をいじくり回したところで、それはパロディにしかならないだろう。

 ポルノ的描写で家族の虚像を剥ぎ取って行くコメディとしてなら、周防正行の『変態家族・兄貴の嫁さん』の方がはるかに刺激的だった。表面的にはどんなに逸脱した行動をとっていても、「家族」というフォーマットは盤石で揺るがない。その強固さがあの作品を裏側から支えていたのだし、作品のテーマにもなっていた。『やわらかい肌』で描かれた家族も、最後まで「家族」という形を崩そうとしない。妻はテレクラで年下の青年と浮気し、夫は近所の未亡人と恋に落ち、長男は同じ未亡人と情事を交わし、長女はテレビカメラの前で自らの肉体をさらけ出し、次女はテレビディレクターに処女を捧げる。同じ家の中にいながら、それぞれに外部の異性と性的な関係を結んでいるのだが、「それがどうした」と思えてしまうのはどうしてだろうか。何かが物足りない。

 この映画に描かれているセックスには、家族を崩壊に導く「危機」としての能力が欠けている。だから観ていても一向に刺激がないのだ。「見てはいけないものを見たいという欲望」「やってはいけないことをしたいという欲望」がエロティシズムの源流だ。だが根本的なタブーを失った物語の中で、どんな肉体的な描写も、観客の精神を刺激することはない。そこに登場するセックスは単に「ほらセックスしてます」という記号でしかなくなり、「セックス」という行為が本来持たされていた感情面でのしがらみが、きれいさっぱり消えている。

 こうした家族像は監督の意図するものだろうが、これに対応すべきチェーンソー少女や、僕と結婚して!」と涙ながらに懇願する青年の姿が、主人公一家の姿とぶつかりあってこないので、全体的な主旨が不明確になっている。チェーンソー少女と青年が海辺で出会う場面が最後に用意されているけど、僕はその後が見てみたい。主人公と息子の近親相姦的関係の行く末を見てみたい。


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