ラブ ジョーンズ

1997/11/07 シネセゾン試写室
ひとめ惚れの恋からはじまる、恋人同士のすれ違い。
物語の終盤にもう少し厚みがほしい。by K. Hattori



 愛し合っているのに、互いに「愛している」と言えないまますれ違いを続けるカップルを描く映画です。このパターンは、今までさんざん描かれ続けてきた恋愛の一風景。愛し合った末に結ばれるのではなく、「最初にセックスありき」という現代においては、こうしたカップルの姿に共感を覚える人も多いのでしょう。じつは僕も大いに思い当たるところが多くて、ついつい感情移入して観てしまいました。

 出会ったその日の内に意気投合し、初デートでベッドインしてしまった女性写真家のニーナと詩人のダリウス。ダリウスがニーナの部屋の台所で、彼女のためにかいがいしく朝食のオムレツを作る場面には感激してしまった。じつは僕も、ガールフレンドのためにせっせと朝食を作るタイプだったもんですから、ここで僕は一気にダリウスに感情移入してしまいました。(もっとも、さすがに僕も初めて泊まったガールフレンドの部屋で、オムレツを焼いたことはありませんが……。)

 ダリウスがライブハウスで披露する「ポエトリー・リーディング」は、アメリカでは音楽の1ジャンルになっているみたいですね。じつはこの映画を観る直前に、同じ試写室で『アレン・キンズバーグの骸骨のバラード』という作品を観ているのですが、これはガス・ヴァン・サントがキンズバーグの詩の朗読を撮影した短編映画。先日観たティム・ロスとトゥパック主演の『グリッドロック』も、ポエトリー・リーディングのバンドの話でした。日本にはあまりこうしたタイプの音楽がないように感じます。アメリカ独自の文化なんでしょうか?

 映画の舞台になったシカゴの街並みが、じつに美しく撮影されていて魅力的でした。後半ではニューヨークも登場しますが、シカゴの方がしっとりとしたいい町に描かれています。これは作り手側のシカゴの町に対する思い入れなんでしょうか。ニューヨークの薄っぺらな印象に比べて、シカゴは豊潤な温かさを感じさせます。

 映画を観ていて、ニーナとダリウスがなぜ一時的に別れてしまったのかがよくわからなかった。「出会い頭の運命的な恋」に絶対の確信を持ちながらも、それに対する自信がふと弱くなることがあるのかな。あるいは、相手の本当の気持ちに対する不信感が、心の隙間に入りこんでくるような時期だったのでしょうか。「僕たち、セックスはしてるけど、ただの友達です」と宣言して、きれいさっぱり別れてしまうふたり。ニーナは昔の恋人のもとに戻り、ダリウスは行きずりの女との情事におぼれる。ニーナが元恋人と別れて町に戻ってきても、ダリウスはそれを迎えず、ニーナはダリウスの友人と付き合いはじめる。このあたりは、もう少しすっきりと描いてほしかった。ひょっとしたら台詞で説明があったのかな。

 ニーナと付き合いはじめたダリウスの友人に、他の友人たちからの非難の視線が突き刺さる。こうしたモラルって、アメリカの国民性なのか、それとも黒人独自のものなのか? フランス映画だったら誰も非難しないのになぁ。


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