アニー・ホール

1997/10/12 シネスイッチ銀座
誰しも心当たりのある失われた恋の切なさを、ユーモアを交えて描く。
1977年に製作されたウディ・アレン監督の傑作。by K. Hattori



 1977年製作のウディ・アレン作品。20年たった今観ても、内容的にはまったく古びていないと思う。公開当時話題になったファッションなども、ひとめぐりして新鮮に見られる感じ。ただし、出演者の顔ぶれにびっくりすることは多い。ダイアン・キートンの弟を演じたクリストファー・ウォーケンや、パーティー会場で電話中のジェフ・ゴールドブラムなど、「うひゃ〜若い!」と思わせるます。下手な映画だと、そうした細部の面白さで映画の流れが遮断されてしまうのですが、この映画はそれほど弱くない。そもそも物語の中心になるエピソードを無数のギャグであえて大蛇行させている映画ですから、意外なキャストぐらいではびくともしません。

 この映画を「ウディ・アレンの最高傑作」と言う人も多いようですが、僕は最新作の『世界中がアイ・ラヴ・ユー』を観た後なので、両者を比較して、共通点や相違点を見つけては面白がっていた。例えば映画の冒頭で、主人公がグラウチョ・マルクスの言葉を引用するくだりは、『世界中がアイ・ラヴ・ユー』のパーティー場面を思い出させます。ウディ・アレンは、本当にグラウチョ・マルクスが好きなんですね。

 主人公が映画のスクリーン越しに観客に語りかけたり、脇の登場人物が主人公に警句を発したりする場面は、かなり演劇的なアプローチだと思うのですが、この手法は『誘惑のアフロディーテ』につながってくるものでしょう。こうして『アニー・ホール』の中のいろいろな要素が、アレン映画の最新作にまで脈々と生き続けているところを見ると、やはりこの映画がアレンの映画のひとつの原点になっていることは間違いないと思います。

 映画は、別れてしまった恋人について語る主人公の姿からはじまり、ふたりの馴れ初め、仲違いと短い別れ、再出発、ギクシャクしたふたりの生活ぶり、本格的なすれ違い、別れと再会までを、ユーモアとギャグとほろ苦さを交えながら描いて行きます。ユニークなエピソードが多いのに、どんなエピソードにもすごく感情移入してしまうのはなぜなんでしょう。自分の恋愛体験と映画の中の出来事を照らし合わせながら、「ああ、こんなことって確かにあるよなぁ」と思わせるのです。

 恋愛中の恋人たちが持つ濃密な時間の流れや、倦怠期を迎えたカップルのすれ違い、別れの予感、きれいに別れたと思った後に襲ってくる未練など、どれもがじつに生々しく描かれている。きれいごとでは済まされない恋愛の1サイクルを、解剖台の上の標本のように子細に分析している映画ですが、これが生臭くならないのは、ウディ・アレン一流のユーモアと諧謔趣味が表面を口当たりのいいものにしているからでしょう。

 どんな人にも、その人にとって忘れ得ぬ恋というものがある。未練というのではないけれど、心の中にささったトゲのように、思い出すとチクリと胸が痛む恋がある。そんな恋の切なさは、『世界中がアイ・ラヴ・ユー』までずっと続く、アレンの映画のテーマなのです。


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