東京日和

1997/09/18 東宝第1試写室
竹中直人は監督3作目で普通の異業種監督に逆戻り。
才気のかけらも感じられない凡庸な映画。by K. Hattori



 天才写真家アラーキーこと荒木経惟と、彼のパートナーであり長年の被写体でもあった陽子夫人の共著「東京日和」に触発され、竹中直人が撮り上げた監督第3作。最初は「竹中直人が写真集を映画化する」「竹中直人がアラーキーを演じる」と話題が先行していましたが、出来あがった映画は原作とされた本やモデルとなった荒木夫妻から一歩距離を置いて、写真家・島津巳喜男と妻・ヨーコの物語になってます。(ちなみに主人公の名前は、往年の映画監督・島津保次郎と成瀬巳喜男の名前を合成したものです。)脚本は岩松了。シナリオを作る段階で、最初は荒木経惟本人を取材していたらしいのですが、本人のあまりの個性の強さに物語としての着地点を失い、「東京日和」そのものの映画化を断念。写真家という設定だけを残して、まったく別の物語にしたということですから、これは「原作=荒木経惟+陽子」とは言えないでしょう。完全にオリジナル脚本と考えた方がいい。

 僕は竹中直人の監督作を『無能の人』『119』と観てきましたが、そこには何か非凡なものを感じさせるものがありました。ところがこの『東京日和』からはそれがまったく感じられない。だらだらと間延びしたエピソードの羅列。出演者ばかりが豪華で内容空虚な物語から、僕はどんな感動も味わうことが出来なかった。自分の顔でこれだけの出演者が集められるのはすごいと思いますが、それが物語の中で生きていないのは困りもの。

 そもそも主人公の写真家に、職業人としての匂いが感じられないし、写真家という職業に対するスタンスやポリシーも感じられないから、物語の腰が弱くなる。物語は夫婦の食卓周辺で進むのですが、その一歩裏側にあるだろう仕事部屋では、主人公が黙々と撮りためた写真の整理をしていたり、暗室作業で薬剤と格闘していたりしなければおかしいよ。この映画からは、首からカメラをぶら下げた自称カメラマンを現実面で支えている、プロとしての仕事ぶりがまったく見えてこない。カメラをぶら下げて街を歩いていればカメラマンというわけではなかろうに……。この映画の主人公は、映画の中でカメラマンとしての仕事をほとんどしていない。容易な商業写真に飽き足らず、会社を辞め、紹介された仕事も断り、その上で彼がどんな写真を撮りたいと考えているのかが不明確だから、ただ単に仕事をしたくない生活無能者のように見えてしまうのです。

 主人公と妻の関係にも、僕はリアリティを感じられなかった。竹中と中山美穂のコンビで「夫婦のようで夫婦でない夫婦」を狙ったそうですが、第一印象から最後まで徹底して「夫婦に見えない」のでは狙いをはずしすぎでしょう。やはり基調としては「夫婦」であることがベースで、その上に「夫婦でない」ような描写が重なっていかないとね。この映画の夫婦像から僕は篠崎誠監督の『OKAERI/おかえり』を連想しましたが、篠崎監督の映画にあって『東京日和』に欠落しているのは、夫婦間の濃厚なエロスなのです。


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