眠狂四郎勝負

1997/06/14 アテネ・フランセ文化センター
(監名会・第54回例会)
組織に属さず大義名分も持たず、ただ己自身の価値観のために剣を振るう
ヒーローというのが、いかにも戦後なのでしょうね。by K. Hattori



 恥ずかしながら、僕は『眠狂四郎』シリーズを観るのが初めてなら、雷蔵の映画を観るのも初めてという状態でした。そもそも、大映の時代劇を観る機会が、僕にはあまりなかったこともある。『眠狂四郎』シリーズに関しては、「その内、文芸坐あたりで特集をやるだろう」と思って安心しきっていたこともあるんです。僕は文芸坐の正月の特集で、勝新や嵐寛を観てますからね。そうこうしている内に、思ってもみなかった突然の文芸座閉館。昔の時代劇を観る機会って、これでまた一段と減りますね。大井武蔵野館が頼りだけど、ここはセレクションがちょっと特殊だから、観る機会がないとはいえ雷蔵の、しかも『眠狂四郎』シリーズをかけることはなかなかないと思うんだけど……。ま、気長に待ちましょう。

 今回は「監名会」の第54回例会に、脚本家の星川清司さんを招いて『眠狂四郎勝負』の上映。いやはや、これが面白いのなんの。僕が愛読している島野功緒の「時代劇博物館」によれば、この作品こそが12本ある雷蔵の『眠狂四郎』シリーズ中でも最高傑作だという。なるほど、そういうものか。雷蔵を観るのはこれが初めてなので、彼がどれほどの役者だったのかという点についてはきちんと評価できない。この映画は役者もいいけど、三隅研次の演出や、美術スタッフなどもじつに素晴らしい仕事をしているのです。

 出来の悪い映画で欠点を探すのは簡単だけど、こうした出来のいい映画で、なぜそれがいい映画なのかを説明するのは難しい。映画制作に関わるすべてのスタッフが、それぞれ与えられた仕事の中でベストの力を出しきった結果が、傑作映画という形になってくるからです。『眠狂四郎勝負』の雷蔵は確かに素晴らしいかもしれない。でも例えば、勘定奉行役の加藤嘉の好演がなければ、敵役の須賀不二男に魅力がなければ、釆女を演じた藤村志保がいなければ、この映画は傑作にはなっていなかったんだと思う。映画はスターがひとりいれば形になるけど、話が傑作となると総合力が問われるのです。

 この映画には、どの場面にも遊びや無駄がありません。それでいて、窮屈さも感じさせない。冗長になりそうな場面や動きの少ない場面は、構図やアングルに工夫をしてしのぎ、その分アクションシーンはゆったりと正面から見せている。同じ大映映画でも『座頭市』シリーズなどは殺陣の場面でカメラがもっと動き回るんですが、この映画では狂四郎の円月殺法を丸ごと見せる。文字どおり盲滅法に刀を振り回す座頭市と違い、狂四郎の剣は一撃必殺の剣法ですから、殺陣もおのずと違ってくるのでしょう。ただ、円月殺法はあまり乱闘向きではないですね。林の中での斬り合いの場面でそう感じました。

 物語は初詣の参拝客でにぎわう愛宕神社のスリ騒ぎから始まり、松の内に決着がつく。何とも物騒な正月ですが、夜泣き蕎麦屋の呼び子の声、三河万歳など、画面のあちこちに顔を出す江戸風俗が、この作品をかおり高いものにしているのです。


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