フランキー・ザ・フライ

1997/05/29 シャンテ・シネ1
デニス・ホッパー扮する老ギャングが映画作りを通じてボスに復讐。
良くも悪くも、デニス・ホッパーのための映画。by K. Hattori



 この映画を作った人は、デニス・ホッパーが大好きなんだろう。俳優や監督としてのキャリアの上でも、私生活の面でも、数々の修羅場をくぐったこの老俳優に対する敬意が、映画の中からプンプン匂ってくる。物語はそんな作り手の立場とはまったく逆に、周囲から「ハエ」と馬鹿にされる、うだつの上がらない老ギャングの生活を描いているのだが、そこに垣間見えるのは、老ギャングの中にくすぶる一片の矜持(プライド)である。自分よりはるかに年下のボスに奴隷のようにこき使われ、自分の大切にしているものを汚された時、彼は復讐を決意する。復讐の手段が「映画作り」というのは、物語の流れからすればなんの必然性もない。だがこれは、映画監督デニス・ホッパーに対する最大級の敬意の表現なのです。ホッパー演ずる主人公にとって、映画作りを妨害されることほど腹に据えかねることはないでしょう。

 主演のホッパー他、サディスティックな若いボスを演じるマイケル・マドセン、NYU映画科出身のポルノビデオ監督キーファー・サザーランド、ヤク中の三流ポルノ女優ダリル・ハンナなど、中心をベテランや中堅の俳優たちでガッチリ固めたキャスティング。老ギャングの反逆というテーマも面白いし、撮影現場の様子や競馬場の駐車場でのやり取りなど、物語のディテールも魅力的。だが僕は、この映画に物足りなさを感じた。撮影現場の和気あいあいとした雰囲気は伝わってくるような楽しい映画なんですが、ギャング映画に不可欠なバイオレンスの匂いがこの映画からは感じられない。

 この映画のデニス・ホッパーは、結局最後までデニス・ホッパーのままなのです。彼はしょぼくれた三流ギャング「フランキー・ザ・フライ」になりきれていない。これは演出する側が、あまりにもデニス・ホッパーという人物を愛しすぎてしまったからかもしれない。デニス・ホッパーという人物の生き方やスタイルに傾倒するあまり、デニス・ホッパーという人物の殻を破って、フランキーが登場することを邪魔してしまった。大物スター俳優を使った映画の場合、よくある失敗です。

 映画監督が俳優を使う場合、どこかでその俳優を突き放して、第三者の目で見ることが必要なんです。例えばトラボルタが大好きだったタランティーノは、『パルプ・フィクション』の中でべったりトラボルタに甘えながら、一方で冷たく突き放してもいる。こうしたバランス感覚が、『フランキー・ザ・フライ』の監督には欠けています。でも僕はこうした失敗を許しちゃいますけどね。へんに役者を突き放して残酷に扱うより、役者と演出者が一体になって共に転んだ方がかわいげがあります。

 ダリル・ハンナはバンデラスと共演した『あなたに逢いたくて』にも出演してましたが、この映画の方が魅力的に描けてます。このキャラクターが、脚本の段階でかなり立体的に書き込まれているからでしょう。フランキーの残したビデオを見ながら泣き笑いする場面には、こちらも思わずホロリと来ました。


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