大阪の章二クン

1997/05/03 有楽町朝日ホール
(日映協フィルムフェスティバル'97)
普通の男女の普通の恋愛話を娯楽映画にするには工夫が必要。
真面目に誠実に作ってもこれでは退屈なだけ。by K. Hattori


 とりたてて特別なところのない、普通の青年男女の恋愛を描こうという意図はわかる。でも劇場用の娯楽映画としてそれを成立させるためには、作りに普通じゃない部分をつくらなきゃいけません。この映画が誠実に真面目に、面白い映画を作ろうとしているのはわかる。でもそれなら、主役の男女俳優のキャスティングにもっと力を入れるべきでした。この映画の二人は、共に主役として常に映画の大画面を占領しつづけられるほど、魅力的な容姿をしていないのです。主人公ひとみは、どの場面のどんな表情を見てもきれいにもかわいくも撮れていなかったし、大阪の章二くんも、たれ目でベタベタの大阪弁をしゃべる冴えない男じゃないか。

 こうしたキャスティングをしたからには、責任を持って彼らを魅力的に撮ってあげる工夫をしなければならない。それが映画を作る側の義務です。映画というのは不思議なもので、ぜんぜん美人じゃない女優を、世界一チャーミングな女に見せたり、聖女のように神々しいオーラをまとわせたりすることができる。それが映画の持っている魔法のような力です。『大阪の章二くん』では、そうした映画の魔法がぜんぜん機能していない。

 普通の男女の普通の恋愛模様なんて、傍から見てても面白くも何ともないよ。当人達には自分のことだから面白いかもしれないけど、第三者から見れば、他人の恋愛なんて「はいはい勝手にやってなさい」ってなもんじゃないか。単なるのろけ話や自慢話でしかない他人の恋愛を、どうやって観客の側に引き付けて行くかがポイントなんだけどなぁ。映画の序盤で観客を強引に物語の中に引き込む何かが、ここには欠如しているように思う。

 主人公のひとみは、バイト先の沖縄で知り合った男と過ごした、めくるめく日々が忘れられないわけです。だからそれに引かれて、相手の男の心が既に自分から離れていることを知りつつ、再び沖縄に行こうとしている。沖縄に行けば自分が傷つくことは目に見えている。そうとわかっていても、沖縄に行かずにいられないのは、半分は女の恋心、半分は性欲のなせる技でしょう。

 これは作る側に問題があるんです。彼女が沖縄で体験したのは、何もセックスだけじゃないはずなんだよ。でも、彼女の回想シーンにはセックスしか出てこない。彼女にとって「恋愛=セックス」なんだよ。少なくとも映画ではそれが強調されている。対して大阪の章二くんは、セックス以外の愛情を主人公に教えてくれる。本物の恋愛はセックスじゃないんだという、製作者側の思いがここには見えるわけです。でもさ、本物の恋愛って、セックスも含めてのものなんじゃないのかな。それを完全に切り離してしまって、純粋なプラトニックラブを描こうとするにしては、この映画は工夫が足りないよ。

 この映画で、主人公の身体を時々フルヌードにして見せる描写はユニークでした。でもこれは、二人がバイクに乗っている1シーンだけでよかったと思うぞ。章二くんが駅で倒れるエンディングも不要です。


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