パブリック・アクセス

1997/04/23 渋谷シネパレス
『ユージュアル・サスペクツ』のブライアン・シンガー監督のデビュー作。
主人公の不気味な存在感に背筋が寒くなる。by K. Hattori



 『ユージュアル・サスペクツ』のブライアン・シンガー監督が、1993年に撮ったデビュー作。この前の日に観た『クルーシブル』は悪魔の出てこない魔女裁判の物語だったけど、この『パブリック・アクセス』を観て本物の悪魔に出会った気分です。主人公ワイリー・プリッチャーの正体不明さ、狂暴さ、邪悪さに、背筋が凍りそうになる。ふらりと町にやって来て、またふらりと立ち去る彼の後には、荒廃した町が沈没寸前の船のように横たわっているだけです。彼はこの後どこへ向かうのか。また別の町に行っては図書館で調べ物をし、地域ケーブル局のゴールデンタイムを買って「アワー・タウン」の司会者を務めるのだろうか。彼は今までに何人の人間を手にかけ、いくつの町を破滅させたのだろう。

 登場する人物の造形が立体的で、性格や容姿や行動などの輪郭も明確。誰も彼も皆、どこかに本当にいそうな、リアルな人物になっています。こうした明解さがあるからこそ、余計にワイリー・プリッチャーの存在が不気味。彼は最後まで正体不明の人物だけど、その正体不明さは、凡庸な監督がヘマでやるような、薄ぼんやりした輪郭の曖昧さでは決してない。むしろこの映画の中で、ワイリーほど輪郭が明確で、行動が把握しやすい人物はいないほどです。にも関わらず、この人物は最後の最後まで正体不明なのです。

 ワイリーが何を目的としているのか、何を考えているのか、僕には皆目見当がつかない。テレビ番組を通して町の人間関係に荒波を立て、心理的な荒廃に追い込もうとしているわけではない。町長の不正を隠し、反対勢力を排除するのが目的というわけでもない。そもそも彼は図書館で何を調べていたのか。そこで得た知識を何に使ったのか。持ち出しばかりのケーブルテレビ放送以前に、彼はどこで収入を得ていたのか。彼の両肩にある刺青は、彼のどんな過去を示しているというのか。神経質に下宿のバスダブを掃除していた彼の姿。階下のレコードの音に耳をふさぐと、頭の中からあふれてくるノイズ。フラッシュのように挿入される、殺人現場の光景。

 こうした数々のイコンは、単なるこけおどしではない。これらはすべて、ワイリーという男を正体不明にするために撒き散らされた、重要な小道具でありエピソードなのだ。こうした断片のどれからも、観客はワイリーの正体に近づくことはできない。ひとつを解釈しようとしても、別の断片がそれと相反する解釈を生み出すはずだ。結局これら多くの手掛かりがあるにも関わらず、ワイリーその人について我々は何ひとつ知ることができない。

 この映画を「メディア批判」と捉えるのは一番手っ取り早い解釈だと思うけど、それは映画の四半分程度でしかない。でも「ワイリーの禍禍しいオーラはテレビに映らない」のは事実でしょう。映画の観客なら誰でもわかる彼の不気味さに、他の登場人物は誰も気づかない。結局テレビというフィルター越しにしか、ワイリーを観ていないからなんでしょうね。


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