危険な英雄

1997/04/16 大井武蔵野館
誘拐事件のマスコミ報道に警鐘を鳴らした社会派映画。
昭和32年の鈴木英夫監督作品。by K. Hattori



 石原裕次郎の兄、石原慎太郎の主演映画。これがなかなか見せる社会派の秀作なのだ。発端は資産家の子息が誘拐され、身代金を要求された事件。サツ回りの新聞記者がそれを嗅ぎつけ、マスコミでは連日のように他社を出し抜くスクープ合戦が始まる。だが加熱するマスコミ報道が犯人を刺激して、最後に人質の子供は殺されてしまう。映画が作られた昭和32年は、まだ誘拐報道に関する報道協定が存在しなかったという時代背景を頭に入れておかなければなりません。協定が出来たのは、昭和38年の吉展ちゃん事件がきっかけでした。この映画はそれに先駆けて報道の危険性を指摘している点で、当時はかなり新しい映画だったはずです。

 サツ回り記者と刑事の駆け引きの様子や、新聞社内部で熱に浮かされたように情報収集に駆けずり回る記者の描写など、脚本はなかなかよく出来ている。慎太郎演ずる冬木という野心家の記者は、新聞を売るためにセンセーショナルな見出しの記事を連発。仲代達矢扮するライバル新聞社の記者今村は、そんな冬木の取材姿勢を「野次馬だ」と軽蔑する。「真実の追究」「事実を人々に知らせる義務」という大義名分のもとに、大衆を扇動し、犯人を心理的に追いつめて行く新聞報道。犯人のモンタージュ写真を手に入れた新聞社が、新聞配達の少年たちを使って、警察より先に犯人を見つけようとするあたりが、この映画のクライマックスでしょう。

 話は十分に面白いのですが、マスコミ批判の社会派映画としては、テーマが十分に練りきれていない印象を受けました。確信犯的に商業主義に走る冬木と、人質の安全をはかって報道を差し控える今村の対比も、各社入り乱れての報道合戦の中では、意味のないものに見えます。主人公冬木の書いた記事は映画の中に頻繁に登場するのですが、今村の書く記事がどんなものなのかが、もうひとつわかりにくい。誘拐報道の中で、「人道的見地に立った報道」なんてものが可能なんだろうか。おそらくそれは不可能であるという結論から、後に報道協定が結ばれたのではなかろうか。

 今村は偉そうに冬木を批判するが、では今村の書いた記事は犯人を少しも刺激しないのだろうか。どこまでがまともな取材や報道で、どこからが行き過ぎなのかという明確な一線が、この映画の中では描けていません。今村も冬木も、事件をネタにして食っているという点で、五十歩百歩にしか見えないのです。今村と冬木を新聞記者の裏と表に色分けすることに、この映画は失敗しています。これがもっと上手く行けば、『危険な英雄』は現代にも通じるテーマを持つ映画になり得たでしょうに。

 主人公を自分の立身出世のために手段を選ばぬ「悪役」側に配置したことが、この映画の成功した部分だと思います。ただ、石原慎太郎は爽やかな好青年すぎて、記事のために人が死んでも屁とも思わぬ確信犯には見えないのです。石原の役は本来なら仲代が演じてこそはまる役柄でしょう。そうなると石原の出る幕はないけどね。


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