瀬戸内ムーンライト・セレナーデ

1997/03/28 丸の内松竹
長塚京三の一家が戦後の焼け跡を旅するロードムービー。
面白い素材だけど内容がこなれてない。by K. Hattori



 映画は阪神淡路大震災のニュース映像から始まります。丸焼けになった神戸の街を見ながら、語り手である主人公は「これと同じ風景を以前に見たことがある」ことを思い出します。戦争末期の空襲で、焼け野が原になった神戸の街。対岸の淡路島から、夜空を真っ赤に染める紅蓮の炎を見守っていた思い出。赤く染まる空の下には地獄が広がっていることなど思いもよらず、少年だった主人公はその光景に見とれ、性的な興奮すら感じていました。こうして映画は、現在と過去の記憶を交錯させながら、観客を終戦直後の家族の物語に引き込んで行きます。

 神戸の震災被害を、戦災の記憶とダブらせた人は多かったはずです。関西出身だった年配の知人は、この映画の主人公と同じように「これと同じ風景を見たことがある」と言っていました。さらに年配で東京っ子だった僕の大叔母は、東京の空襲はもちろん、その前の震災の風景まで思い出したそうです。

 戦後の焼け跡や闇市を歩き回る主人公たちを描くのに、神戸の震災のニュースから語り始めるというこの映画の手法はユニークだし、アイディアとしては成功していると思います。こうすることで、50年前の風景とその中で動き回る人々の姿を、じつに生々しく感じることができました。現代を生きる主人公は神戸の震災跡を通して過去へと旅をし、思い出の中の家族は焼け跡と廃虚を通じて現代へとよみがえります。少年時代の主人公と、成長した現代の主人公が、焼け跡の中で交差する場面は、この映画の中でも最もスリリングな場面でしょう。

 ただしこの手法は主人公たち一家が神戸の町を離れてしまうと、効果を失ってしまうのです。映画は、戦争で死んだ長男の遺骨を、淡路島から九州にある父親の郷里まで埋葬しに行くロードムービーです。焼け跡を通して現代と過去が交錯するのは、淡路島から神戸までで終り、一家がフェリーに乗ってしまうと、何の変哲もない普通の映画になってしまうのです。冒頭からの時間の対比がじつに鮮やかだっただけに、中盤以降のエピソードはあまりにも語り口が平凡に見えてしまう。思い出の中で一家が移動するのに合わせて、現代の主人公も同じように移動させるとか、何か工夫は必要だったと思う。

 ラストシーンに至っては、語り口と内容とのギャップが大きくなりすぎて、映画全体がボンヤリとした印象になってしまったのは残念だ。主人公の気持ちは神戸の焼け跡を通じて過去の神戸につながり、そこから遥か遠く、50年前の九州の小さな駅に通じている。しかし両者のつながりはあまりにも頼りない細い線で結ばれており、観客が主人公と同じ風景を見ることができないのだ。焼け跡の記憶が引き合って、主人公が神戸に足を運んだことは納得できても、神戸の焼け跡から家族の旅の記憶へと結びつく部分が弱いのではなかろうか。

 『無法松の一生』『雄呂血』『カサブランカ』などの名画を通じて描かれる「映画に対する愛」には共感するが、それがテーマを分散させて物語を弱くしたとも思う。


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