天国と地獄

1997/03/24 並木座
特急こだま号を使った身代金受け渡しシーンは今も色褪せない。
黒澤モノクロ時代、最後のアクション映画。by K. Hattori



 ロン・ハワードの『身代金』を観ていたら、黒澤の『天国と地獄』にそっくりな場面が出てきて驚きました。誘拐事件の捜査のために訪れた刑事たちが、工事業者に変装してやってくるところは、『天国と地獄』の刑事たちが高島屋デパートの配達に変装して権藤邸を訪れる場面のコピーです。この場面は、「なるほど、誘拐事件の捜査はこのように慎重に行われるのか」と目から鱗が落ちる前半の見せ場。刑事たちの無駄のない動きと、全員一丸となったチームワーク、的確に状況を分析しながら事態の推移を見守る冷静沈着なプロフェッショナルぶりが、この一連の場面ですんなりと観客に伝わってきます。『身代金』はその場面をそっくり引用しながら、『天国と地獄』ほどの面白さがありませんでしたね。

 『天国と地獄』からの引用でもっと有名な映画には、スピルバーグの『シンドラーのリスト』があります。ゲットー襲撃の場面で、それまでモノクロだった画面の中に、少女の赤いコートだけが切り抜いたようなパートカラーで描かれる。これは『天国と地獄』で煙突から出た牡丹色の煙に、明らかに影響されています。黒澤の映画はこうして海外の映画製作者たちにいつも新しいインスピレーションを与えている、映画の教科書です。

 『天国と地獄』は、黒澤の作品の中では『赤ひげ』の前に作られた、黒澤がもっとも充実していた時代の映画です。『赤ひげ』で演出術の突き当たりまで進んでしまった黒澤ですが、『天国と地獄』にはまだそうした行き詰まり感が少ない。のびのびとした躍動感にあふれる、超一級の娯楽作品になっています。

 映画は前半で「犯人に追われる権藤」を描き、後半は「警察に追われる犯人」を描いています。前半の舞台はほとんどが権藤邸の居間の中だけ。三船敏郎扮する会社重役は、どこにいるとも知れない犯人の電話に翻弄され、居間に釘付けにされてしまう。犯人の電話を受けるため、部屋から出て行くこともままならず、締め切ったカーテンを開けることもできない。彼は身体の自由を奪われ、その間に会社からも追い出されます。ガラス張りの邸宅は、主人公にとって牢獄のような場所に変ります。

 この閉塞感は、犯人が身代金受け渡しの場所として指定してきた特急列車の中で、さらに濃密なものになる。高速で移動する列車の密室性が、緊張感をいやがうえにも高めるのです。この場面では、実際に列車を借り切ってスタッフとキャストを乗り込ませ、通しで芝居をさせながら全カットを1度に撮ってしまうという黒澤の思い切った演出が、ものすごい迫力と緊迫感を生み出しています。観客はこの部分でクタクタに疲れ果てて、半分意識朦朧。だからここで急に視点を変えて、後半のエピソードに移っても不自然にならないのです。

 ところで、『赤ひげ』やこの『天国と地獄』を観ると、三船敏郎があまり上手い役者じゃないということが露骨にわかってしまいますね。両方ともあまり動かない役ですが、三船には腹のある芸が似合わないようです。


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