野獣死すべし

1997/03/20 銀座シネパトス2
主人公の行動規範や動機の不鮮明さが映画全体を曖昧にした。
大藪春彦の原作を木村一八主演で再映画化。by K. Hattori



 大藪春彦の原作は、かつて仲代達也・松田優作らによって2度映画化されている。僕は仲代版を観ていないのだが、松田優作の『野獣死すべし』は異常な光を放つ傑作だ。それをリメイクするからには、作り手の側にそれなりの覚悟が必要だろう。しかしこの映画の出来栄えは、そんな観客の期待に背いてずいぶんと安易だ。

 今回主人公の伊達邦彦を演ずるのは木村一八。このキャスティングがよかったのかどうかが、そもそも僕には疑問なのだ。金のためなら人殺しさえ厭わない。殺人に罪の意識を感じることすらない、という虚無のヒーロー伊達邦彦を演ずるにしては、木村一八という俳優はウェットすぎる。彼は基本的に「義理人情の人」でしょう。世のしがらみの一切を捨てて、非情の世界に足を踏み入れて行く男には見えないんだよね。今回の映画なら、例えば浅野忠信あたりをキャスティングすれば、そのまますんなりとはまったんでしょう。浅野は生活感が希薄で捉えどころのない、それでいて不思議な生命力を感じさせる役者ですからね。まさに伊達邦彦にぴったり。

 これは木村一八という役者が上手いとか下手だとか、そういう意味ではない。伊達邦彦というヒーローは、そもそもが荒唐無稽な存在なのだから、演じる役者はタイプキャスティングでいいんです。登場した途端に「ああ、なるほどこれが伊達か」と観客が納得できる人でなければならない。こうした観客の第一印象は、役作りや脚本に挿入するエピソードで挽回できる物ではないんだよね。松田優作は観客を納得させるために、極端な減量を行ったうえ、奥歯を抜いて顔の形まで変えてしまった。そうやって、日常生活から際限なく逸脱して行く悪のヒーローになりきったのです。

 そもそも、なぜ今になって『野獣死すべし』を再映画化し、伊達邦彦をよみがえらせる必然があったのかが疑問だ。バブルの記憶が覚めやらぬ今の時代では、伊達が強奪する3億円という金も、「一生遊んで暮らせる大金」と言うには色褪せて見える。3度目の映画化に際して製作側に求めたい覚悟とは、むしろこうした部分にある。伊達邦彦は自らの犯罪を通して、世の中の何に対して反旗をひるがえしているのか。それが不明確だから、この映画の伊達邦彦像が曖昧になるのです。彼が求めている物は、いったい何なんだろう。

 主人公の造形があやふやだから、周囲との軋轢や衝突の描写も弱くなっている。精密機械のように正確な完全犯罪を描いているはずなのに、脚本自体にずいぶんと穴があって、意欲が空回りしてしまっている。主人公の行動がちぐはぐで、行き当たりばったりに見えるのは困る。

 作っている方は格好いいつもりなんだろうけど、客観的に見て浮いてしまった場面の多さも気になる。例えば射撃場で女が伊達に向かって銃を構える場面や、伊達と刑事がボクシングジムでスパーリングをする場面には無理があるだろう。木村一八と永澤俊矢じゃ体格に差がありすぎて、ボクシングにならないぞ。


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