赤ひげ

1997/03/15 並木座
昭和40年の黒澤明作品。何度観ても同じように泣ける数少ない映画。
脚本も演出も完璧だが、その完璧さが少々息苦しい。by K. Hattori



 黒澤明のモノクロ時代最後の作品。僕はもう3回か4回はこの映画を観ているが、何度観ても泣かされてしまう感動作だ。同じ場面で同じように泣けるのは、脚本が優れているだけでなく、黒澤の力強い演出があらばこそ。ただ泣かせるだけでなく、タイミングよくはさまれるユーモアににやりとさせられ、次の瞬間にまたドッと泣かされる。絶え間なく続く笑いと涙の波状攻撃に、3時間の映画を観終わると涙腺がくたくたになること請け合い。僕のようにこの映画を繰り返し観ていると、「もうじきあの場面になる」と考えただけでまた泣けてしまう。

 休憩までの前半は、療養所の患者たちのエピソードをオムニバス風につなぎ、後半は岡場所から救われた少女おとよのエピソードを軸に少し長めの話になる。この長短の按配やエピソードの配置がなかなかいいのだ。前半は蒔絵師六助の死と娘のエピソード、山崎努演じる大工佐八と女房おなかの話、香川京子扮する狂女の登場など、全体に重く暗いエピソードが続く。これは「死んでゆく者の物語」と言ってもいいくらいだ。後半はおとよと長坊という子供二人の物語が中心で、最後に加山雄三扮する若い医者の婚礼のエピソードが入る。子供や若者たちが「成長して行く物語」を後半に置いたことで、映画全体が開放的な明るさで終ります。

 この映画には黒澤の技術の全部がつぎ込まれています。脚本はもちろん、芝居の演出、美術セット、撮影、音楽など、あらゆる要素が完全にひとつに溶けあって、映画の世界を作り上げている。技術的な面だけで評価するなら、この映画はそれまでの黒澤映画の頂点であり集大成です。逆にあまりに完璧すぎて、「これ以上の映画はもう作れまい」という、ある種の限界や息苦しさを感じさせてしまうのが、この映画の欠点でしょうか。黒澤自身もそれは感じていたはずです。その証拠にこれ以降の黒澤は、それまで自分の作ってきたテクニックやスタイルを捨てて、自分の映画をどんどん壊す方向に向かって行きます。『どですかでん』以降の黒澤は、少なくともスタイルにおいて、明らかにそれまでの黒澤とは違いますよね。黒澤のフィルモグラフィーには『赤ひげ』以前とそれ以降の間に、明確な一線があるのです。

 繰り返し同じ映画を観ていて、初めて気がついた点がいくつかある。技術的な面では、ひとつのシーンを通しの芝居で一気に撮影した場面でも、狂女が登に告白する場面はワンカット撮影であり、六助の娘の告白は複数カメラを使ってカットを割っている部分。脚本面では、所帯を持って以来ぐっすり眠ったことがないという長次の父と、「カカアやガキのことなんぞ考えてみろ、とたんに飲まずにゃいられなくならア」と悪態をつく平吉の対比。一家心中を「子供達にも相談して」決めたという、長次の両親の卑劣さと弱さ。それを正当化させてしまう、「相談」という言葉の欺まん性など。たぶん長次の両親は、この映画の中で否定的に描かれている数少ない庶民でしょう。黒澤は強い大人が好きなんだよね。


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