歌行燈

1997/03/06 文芸坐2
歌と踊りで人生模様を描き出す物語はなんだかミュージカル風。
戦時下昭和18年の成瀬巳喜男監督作品です。by K. Hattori



 昭和18年に成瀬巳喜男が撮った、泉鏡花原作の新派劇。主演は新派の大スター花柳章太郎と山田五十鈴。明治時代を舞台に、芸一筋に打ち込む若き能役者を主人公にした芸道ものだ。芸が人を殺し、同じ芸が今度は別の人を助ける世界。歌あり踊りありの内容は、まるでミュージカル映画を見ているような楽しさ。中でも花柳章太郎が山田五十鈴に踊りの手ほどきをする松林の場面は、地面に落ちる木漏れ日と人物の対比がじつに美しく、幻想的なムードさえ漂ってくる名場面だ。

 主人公が雪の降る温泉町で、地元の謡曲自慢・宗山を挑発し、相手の出先を封じて鼻をへし折るくだりは面白かった。若造の訪問に対して不遜に構える宗山が、主人公の合わせる拍子に調子を崩し、がっくりと崩れ落ちる様子は、まさに武芸者同士の真剣勝負さながら。あっさりと負けを認めた宗山が主人公に指南を請う様子は、見苦しくもあり、滑稽でもあり、哀れでもある。なまじ芸の本質がわかっているだけに、ひざをポンと叩くその拍子だけで、相手の力量が推し量れてしまうのです。

 互いの立場が一瞬で逆転するこの場面が、本当はもう少しドラマチックに描けているといいのですが、残念ながら絵作りにはあまり力強さを感じません。主人公と宗山が正面からぶつかり合っている様子が、台詞以上には表現されていないような気がします。この一件が引き金になって宗山が自殺してしまうという緊迫した場面なんですから、もう少し別の撮り方があってもいいように感じるのです。泉鏡花の同じ原作で、戦後に衣笠貞之助監督が市川雷蔵主演で撮った映画があるそうですから、そちらと比較してみたい気分です。多分そちらには、何らかの工夫があるような気がします。

 クライマックスは花柳章太郎から芸を伝授された山田五十鈴が、そうとは知らぬまま花柳の父と叔父の前で踊りを見せる場面。踊るとわかっていても、なかなか踊り出さないもどかしさ。踊り始めるとそれに呼応するように歌が入り、鼓が入り、それを聞きつけた主人公もその場に駆けつけるお決まりの展開。御都合主義といえばそれまでだが、話に複線がしっかり張られていることに加え、歌と踊りの存在が残った不自然さをすべて洗い流してしまう。まさにミュージカルですよ、これは!

 跡継ぎを破門したことで途絶えると思われていた芸が、思わぬところで次代に引き継がれている不思議さ。時代を経て、人から人へと伝えられて行く芸術の力。この映画が製作されてから50年以上の年月が流れ、ここでまた新たな観客がそれを観て感動しています。映画の中で描かれているエピソードと、この映画の存在自体が奇妙な二重映しになり、僕は感慨深いものがありました。特にこの日のこの上映が、取り壊しの決まっている文芸坐で最後の最後に上映される映画だということも、僕に奇妙な感じを与えていました。映画の中で、途絶えた芸が幾年かの時を経てよみがえったように、文芸坐という名画座も復活してくれることを願わずにはいられません。


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