フェノミナン

1997/02/21 銀座シネパトス2
トラボルタ主演の超能力映画は途中から難病映画になってしまう。
キーラ・セジウィックの生活感が生きています。by K. Hattori



 トラボルタ主演のカルト宗教映画だという理由で、いくつかの国で上映反対運動が起こったらしい。トラボルタがサイエントロジーの熱心な信者なんだよね。この宗教はお金持ち専門の宗教として有名で、ハリウッドには信者が多いのだ。そうしたある種の予断があって今回観たんですが、僕個人としては「どこがサイエントロジーなの?」と疑問に思いました。ひとりの男の神秘的とも言える体験と、それがきっかけ(?)で身についた超能力に対する周囲の反応などを織り込みながら、人間にとって本当の幸福とは何かを問う映画です。

 普通の男の身に突然超能力が授かり、周囲はそれをなかば胡散臭く、なかば恐怖しながら見ているというストーリーは、例えばクロネンバーグの『デッドゾーン』などにも登場する「超能力映画」定番の設定。(特にこの映画では主人公の能力の原因を脳腫瘍にしているあたりからして、露骨に『デッドゾーン』の影響が見られる。映画ではぼかしてありましたが、キングの原作では主人公は脳腫瘍による頭痛と体の衰弱に苦しんでいます。)定石どおりに行けば、自分の能力によって世間から疎んじられ、日常からはじき出された主人公は、やがて使命に目覚め、世界を救うべく戦うわけです。『幻魔対戦』なんかもそうですよね。『デッドゾーン』もそうでした。

 ところが『フェノミナン』は違う。この映画の主人公は世界を救おうなんて考えない。彼が望むのは、友人たちに囲まれて生活する日常。そして、愛する人と家庭を作ること。彼の能力を危険視した国家権力が彼を囲い込もうと画策するが、彼はその手を逃れて日常に復帰することを望む。彼は徹底して普通の人たちと同じ生活者であり、庶民なんですね。国家の安全も医学の発展も、彼には関係のない話。こうした展開は、今までの「超能力映画」にはなかったものです。

 超能力者というのは、普通の人間より高い能力を持っているがゆえに、世間から憎まれ疎まれる存在だったのです。しかし多くの場合、憎まれ役の超能力者は自分を迫害した世界を救うために犠牲になる。これは十字架に架けられた事で世界を救ったというキリストに重なる生き方なんですが、そこに一種のエリート意識、形を変えた復讐心が見え隠れもする。「俺様の能力を認めなかった愚かな大衆どもを救うために犠牲になるなんて、俺ってなんて立派な奴なんだろう」という自己陶酔を感じる。

 『フェノミナン』の新しさは、そうした「自己犠牲で世界を救う超能力者」というステレオタイプから、徹底して逃げるところです。自分の能力をもてあまし、時にパニックになる主人公が日常に帰ってこられるのは、彼を支える友人や、恋人たちがいるから。終盤はなんだか、難病物の家族ドラマみたいな感じさえするよね。肉親を持たない主人公が、親身になって世話をしてくれる主治医や、親友や恋人たちに囲まれて最後の時を迎える様子は、短い描写ながらもなかなかツボを押さえた演出で、正調難病映画の『マイ・ルーム』より感動的でした。



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