PICNIC

1997/02/09 高田馬場東映パラス
最後の灯台にはどうやって渡ったんだろう。謎だなぁ……。
岩井俊二が94年に撮った寓意なき寓話。by K. Hattori



 94年に撮影されたものの、日本での公開めどがなかなか立たず、昨年ようやく公開された約70分の中編映画。日本では暴力シーンをカットした「日本バージョン」での公開となっている。どこをどのようにカットしたのかは、予備知識がなくても一目瞭然。病院を抜け出したツムジとココが、連れ戻された病院で折檻される場面です。ここだけ物語の流れが少し途切れます。前後がつながらなくなっているのが、一目でわかる。

 カットは映倫からの指示によるものでしょうが、R指定興行などにしてしまえば、カットしなくても上映できたはず。それをせずにシーンをまるまるカットしてしまったのは、岩井映画を支持する、10代のファンを考慮してのことでしょうね。予告編やチラシにある「日本バージョンでの公開です」という断りは映倫への抗議の意味もあるんでしょうけど、ちょっとケチくさい。どうせそのうち「ノーカット完全版」を公開するに違いない。

 精神病院を抜け出した若い3人の患者が、塀の上を伝って世界の終わりを見に行く物語です。精神病院の描写や、塀の上から見た風景など、どこかでロケーションしたんだけど、一応「どこでもない場所」になっている。フィクションです、ファンタジーです、これは寓話なのです。それはいいんだけど、じゃあこれにどんな寓意が秘められているんだ? どんな意味がある?

 例えば……。精神病院というのは我々の暮らす社会の象徴であり、そこでは個人がそれぞれの悩みを抱えながら分断され、孤立して生きている。社会の中は一見平穏だが、裏側ではサディスティックな悪意に苦しめられ、心はひどく傷つけられる。我々はそこから抜け出そうとしても、その社会のルールから完全に逸脱することはできない。つまり、塀の上を歩くことは許されても、そこから降りることはできないのだ。……と、まぁ単純な分析だけど、そう考えることも可能だよね。でも、それをもとに映画を批判したり批評したりはしないのだ。それじゃまるで、映画評論家みたいじゃねぇか。

 岩井俊二は無国籍調が特徴で、タイトルを全部英語表記にするとか、設定や役名を日本離れしたものにするなど、徹底して「僕は日本人じゃありません」と言いたげですよね。ところがこの映画に登場する教会などを見ると、その描き方がどうしようもなく「日本人の見るキリスト教会のステレオタイプ」になっているのが可笑しい。女の子たちが英語で讃美歌うたってるのも気持ち悪いけど、ヘンに馴れ馴れしいあの牧師も不気味だなぁ。キリスト教会というより、何かのカルト宗教みたいな雰囲気に見えてしまいます。

 この映画の中でも、肉体的な生々しさは嫌悪の対象でしかない。それを一人で受け持っているのがサトルで、彼はココのことを「好きだ」と言ってマスターベーションしてるし、塀から落ちて首の骨折って死んでしまう。折れた首がボキボキいう音はイヤらしいね。それにしても、なんで岩井監督はセックスを嫌悪するのかねぇ?


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