I SHOT ANDY WARHOL

1997/01/15 シネスイッチ銀座
ヴァレリー・ソラナスによるウォーホル銃撃を忠実に映画化。
メアリー・ハロン監督はこれが劇場映画デビュー作。by K. Hattori



 ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルが、狂信的なフェミニスト、ヴァレリー・ソラナスに銃撃されて瀕死の重傷を負った事件を、ソラナスの視点で描いた映画。見どころはウォーホルが活躍した60年代の工房「ファクトリー」を忠実に再現したあたりだろうか。

 主人公であるソラナスは被害妄想が高じてウォーホルを撃った狂人で、彼女に感情移入しながら物語を追うことは難しい。映画も彼女に対して一定の距離を置こうとしているのだが、それがあまりうまく行っていないため、観客は狂人の妄想に一緒になって引きずり回され、かなりしんどい思いをしなければならない。彼女が著書である「スカム・マニフェスト(男性抹殺団宣言)」を朗読する場面が随所に登場するが、その内容と彼女の行動との間の関連性が、僕にはチグハグに感じられた。

 「ウォーホルに脚本を盗まれた」という被害妄想に凝り固まった女に、観客が感情移入することは難しい。というより、これは不可能だ。監督自身、彼女に感情移入なんてしてない。だとしたら、彼女を劇映画の主人公にすることは避けた方がよかったのではないか。ウォーホル銃撃事件とヴァレリー・ソラナスを描きたいのなら、からめ手から攻め込む必要があったと思う。例えばウォーホルの周囲の誰か、またはソラナスの周囲の誰かの目からこの事件を描けば、ソラナス自身からもっと距離を置けたはず。この映画の視点は、ソラナスに近すぎます。対象に肉薄する方法は、近づくだけではないと思う。

 この映画に見る所があるとすれば、それは綿密な時代考証であったり、ウォーホルの工房の再現であったりするわけです。でもその主であるアンディ・ウォーホル自身の姿は、この映画からはつかみきれない。ソラナスに感情移入はできないけど、この映画のウォーホルも正体不明の人物だ。ウォーホルの周辺が綿密に作り込まれていればいるほど、ウォーホル本体は見えなくなってしまう。ウォーホルはどんな人だったんだろう。主人公ヴァレリー・ソラナスから、ウォーホルはどう見えたんだろう。それがまったく不明確だから、この映画には「ウォーホルVSソラナス」という対立すら存在しない。

 ソラナスが生活のために売春する場面が、何度も繰り返し出てきます。彼女は10代前半から男性と性交渉を持ち、大学進学後は生活のために同棲や売春を繰り返していたわけですが、その行き着いた所が「男性不要論」だったというのでは、いささか短絡すぎる解釈かな。売春で生活しながら自らをレズビアンと規定し、男性に対する何らの幻想も持たず、むしろ男性の存在しない世界の到来を願うソラナス。彼女は売春という行為に何の罪悪感も持っていないんだけど、仕事としての売春がソラナスの精神を蝕んで行った可能性はないのかなぁ。

 ソラナスにしろウォーホルにしろ、全体に人物の掘り下げ不足が感じられる映画でした。これは作り手側がソラナスやウォーホルの強烈な個性に引きずり回された結果、人物の中身に踏み込めていない印象を持ちます。


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