ビフォア・ザ・レイン

1996/12/23 高田馬場東映パラス
距離の移動と時間のループが人間の愚かしさと小ささを際立たせる。
少女の真っ直ぐな視線が印象的でした。by K. Hattori



 物語はマケドニアの修道院から始まります。マケドニアはバルカン半島南部のエーゲ海に面する地域で、古くはアレキサンダー大王の出身地として知られています。この映画に登場するのは、旧ユーゴスラビアの一部。つい先日まで、内戦でかつての同胞同士が争っていた地域ですね。映画が作られた1994年は、まさに内戦の真っ最中でした。映画にも国連の車両などが登場します。

 マケドニアは地図で見ると、エーゲ海をはさんですぐにトルコ。つまり、ヨーロッパの東端に位置する場所と言えます。映画は3部構成になっていて、第1部の舞台がマケドニア、第2部がイギリス、第3部で再びマケドニアに戻る。イギリスはヨーロッパの西端ですから、この映画はヨーロッパの端と端を結んだ物語です。日本人から見ると、イギリスもマケドニアも同じヨーロッパの一部なんですが、こうして端と端を対比して見せられると、やっぱりヨーロッパは広い。風俗や風景、人の顔つきまでがぜんぜん違いますもんね。

 旧ユーゴ内戦の様子は、『ユリシーズの瞳』や『アンダーグラウンド』にも詳細に描かれていましたが、この映画に描かれているのは、そうした争いとは一見無縁に見える、穏やかな農村の風景です。だがそんな穏やかさの下には、やはりどす黒い憎悪が隠されている。10数年ぶりに故郷を訪れたカメラマンは、バスを降りた途端に機関銃を突き付けられて誰何(すいか)され、銃弾で穴だらけになった我が家をみて唖然とし、幼なじみの家に挨拶しようと隣村に行けば、その入り口で厳重なチェックを受けねばならない。地域が民族によって二分され、互いが相手に銃を突き付けながら暮らしている社会です。

 3部に分かれた映画の各エピソードは、それぞれ人の死で幕を閉じる。どれも唐突な死です。なぜそこでその人が死ななければならないのか、その死にどんな意味も持ち得ない死。観客の前に最後に突き付けられるカメラマンの死は、幼い命を守ろうとする自己犠牲の精神から発したものです。でも彼の尊い行為が何ら幸福な結末を生まないことを、観客は最初のエピソードで知らされている。逃げ去る少女を追うカメラは映画の冒頭に戻り、観客の頭の中では、これまで描かれてきた人々の死のエピソードが循環するだけ。逃げ場はないのです。

 物語の時間進行をあえて分断し、入れ替えたことにより、映画は寓意的な色彩を強めています。第2部でイギリス人編集者の机の上にあった写真は、本来の時間の流れから見ればあり得ない物ですが、これが時間の循環、あらかじめ決定されている未来というこの映画の構造を端的に表現している。単にエピソードを入れ替えただけではないという、制作側の意図がよくわかる場面です。

 この映画を時間の順序でつないでしまうと、恐らく救いようのない暗い話になってしまったでしょう。この映画の中で時間が循環し閉じているからこそ、観客は物語から少し離れたところで、人物たちの行動を観察することができる。映画の後味はむしろ清々しいものです。


ホームページ
ホームページへ