真実の行方

1996/11/15 日劇プラザ
注意:この文章には重要なネタバレが含まれます。
映画を未見の人は決して読まないで下さい。by K. Hattori



 法廷サスペンスにシンプソン事件とサイコスリラーをブレンドした、ひどく後味の悪〜い映画。誠心誠意努力し、アクロバティックな法廷戦術を駆使して被告の無罪を勝ち取った弁護士が、じつは被告に一杯食わされていたという物語だ。このパターンの映画はたくさんあって、古くはクリスティ原作の『情婦(検察側の証人)』が有名。最近では、ショーン・コネリーが死刑囚の冤罪を晴らす『理由』などが記憶に新しい。

 リチャード・ギアが腕利きの刑事弁護士を演じるこの映画を、僕はあまり面白いと思えなかった。最後の最後に用意されている大どんでん返しに、僕は釈然としないんです。この結末では、犯人の人物設定にひどい無理を感じるんですね。彼がここまで狡猾に立ち回れるなら、そもそも何で彼はホームレスなんてやってたんだろう。なぜ2年間も大司教のもとで我慢できたんだろう。彼の芝居は裁判の場ではとても効果的だったけど、それ以外の場で、彼にどんな利益をもたらしたのだろうか。彼があの芝居と引き換えに手に入れていたのは、教会の雑用と、寝泊まりする場所と、屈辱的な毎日だけでしょ。もう少し犯人の生い立ちや身の回りを掘り下げると、後半でそれが効いてきたと思うんだけどな。

 この映画のもうひとつの問題点は、主人公が敏腕弁護士に見えないことでしょう。何事にも如才なく立ち回り、自分の不利益になることには手を出さない。逆に自分の利益と見るや、相手がどんな悪党であろうと弁護に立つ男。法廷は金と名誉を稼ぎ出すための舞台だと心得ている男。よく映画に出て来る、腕の立つ悪徳弁護士のステレオタイプです。本来この役は、もっと嫌味たらしいキャラクターのはず。ところがそれをリチャード・ギアが演じているから、その辺りの毒っ気が薄くなる。金と名誉のためにしか働かないはずの男が、じつは心の中に純な部分を持っていて、そこにまんまと付け入られるというのが話のミソなのに、リチャード・ギアじゃ最初から甘ちゃん弁護士にしか見えないじゃないか。

 脚本では映画の導入部から前半にかけて、主人公の嫌らしさってのがたっぷりと描かれています。一時は検事局でエリートコースを歩んでいたものの、金になる弁護士の職に鞍替えした主人公は、「法廷の真実とは、陪審員の頭の中にある真実だけだ」と言い放ちます。彼が大司教殺しの青年弁護を買って出たのも、一見真っ黒に見えるこの青年を無罪に導くことで、自分の名前を売ろうという魂胆が見え見えに思える。少なくとも、周囲はそう考えます。彼が裁判所の廊下で自分のスタッフたちに向かって「俺は彼は無罪だと信じているんだ!」と怒鳴り散らすまで、本当は観客にもそう思わせておく必要があるんだけどなぁ。映画だと弁護に乗り出した動機が不鮮明ですね。そのあたりがこの映画の腰を弱くしている。

 主人公の弁護士役は二枚目のリチャード・ギアじゃなく、本当はもっとアクの強い悪役系の役者が演じると面白かった。リチャード・ギアは悪徳弁護士に見えないよ。


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